大阪倶楽部

欧米で多くみられる紳士の社交場である。明治中期には首都東京において興隆を極めたが、大阪には旧来の茶屋しかなく、社交場の設立が強く望まれた。
大正元年(1912)住友第三代鈴木馬左也を中心に企画された。11月に大阪倶楽部設立、発起人204名、株主数206名。住友吉左衛門の200株を筆頭に、2000株。うち法人は大阪商船株式会社、宇治川電機歌舞伎司会者の2社。(掲示板より)

大阪府大阪市中央区にある歴史的建造物。1924年(大正13年)の竣工以来、社交倶楽部である社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている。 (wiki)

1914年(大正3年)に創建された英国城館風の大阪倶楽部旧館は同倶楽部の主唱者であった住友家を代表して総理事鈴木馬左也がその評議員でもあったので、当時の住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、野口孫市と長谷部鋭吉がこれにあたった。
1922年(大正11年)に失火のために焼失し、1924年(大正13年)に現在の建物が再建された。
第二次世界大戦下の1945年(昭和20年)3月15日には帝国海軍がこれを徴用した。日本の敗戦にいたっては占領軍が接収をなし、1952年(昭和27年)4月10日に解かれるまで供された。
現会館は東京の日本橋野村ビルや大阪瓦斯ビルヂングを手がけた安井武雄設計による新館である。


新館竣工記念冊子で安井が「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」と説明しているとおり、旧ローマ市街の建築によくみられる石のアーチが目を引く南欧スタイルを取り入れた重厚な外観に仕上げられており、唐草の縁取りやトーテムポールなど細部の彫刻には東洋・中近東のモチーフを見て取れる。(wiki)
大阪大空襲(昭和20年3月)の翌日、帝国海軍から「明け渡し命令」を受けて退去させられる。ほとんどすべての什機備品まで徴用されるに至った。
社員、加賀正太郎(創立時株主、ニッカウィスキー創業者)から東区の邸宅を借用し、一日も倶楽部活動を停止することなく、運営を続けた。
当倶楽部は爆弾の直撃を免れ、窓に設けた鉄製シャッターの効果により炎症被害を受けることなく、建設時の姿を保つことができたものの、終戦に伴い、当会館はGHQに接収される。(掲示板より)

大阪倶楽部の地域は今もビジネス街です。「手形交換所発祥の地」、「帝国座跡」があり、もともと経済の中心だったことが想像されます。住友家の主唱で倶楽部が建設されたと案内板に書かれていますが、土佐堀川に面する土佐堀通に面して三井住友系列の社名が多い。さらに、並んで加島屋本家跡があり、大同生命大阪本社ビルがあります。
