新橋高架橋

新橋駅


新橋駅は煉瓦のアーチが連なっているのが特徴ですが、次第に鉄骨に取り換えられています。耐震補強。


日本の鉄道の8割は明治時代に完成したといわれる。しかし現在、明治期の鉄道の面影が残っている場所はあまり多くない。その理由は、幹線や都市部での高架化、電化、路線改良などによる。今回紹介する「東京市街線」(新永間市街線高架橋)は、日本初の鉄道高架橋である。都心にありながら明治44(1911)年竣工当時の煉瓦アーチ式高架橋を目にすることができる。2010年土木学会選奨土木遺産に選ばれている。

日本初の鉄道である新橋・横浜間の工事は、明治3(1870)年3月の東京・汐留方向からの測量と、4月の横浜・野毛浦付近からの測量に始まる。北ボルネオで鉄道建設に従事していたイギリス人のお雇い外国人(*1)エドモンド・モレル(*2)が鉄道兼電信建築師長として日本に呼び寄せられ、彼の指導の下、イギリス人技師たちの主導で測量が行われた。その指導を受ける鉄道掛の役人たちの服装は陣笠、羽織袴に大小の刀を差し、足元は雪駄や草鞋だった。この状態での測量作業は動作が不自由で、刀が業務の滞りを招いたため、測量員に限り廃刀が許可された。廃刀令が発布されたのは明治9(1876)年のことである。

この日本初の鉄道工事は、旧幕時代の作事方の方法に倣い、工事の材料はすべて官給、工事は職種別に切り投げ方式で発注された。鹿島は鹿島岩吉名義で線路に撒布する砂利を1,000立坪(1,800?)納入している。距離にして数百m程度の撒布量でしかないが、ほかに砂利納入に関しての記載はなく、業者としての比較はできない。当時鹿島は「洋館の鹿島」と言われており、横浜に本店を置き、外国商館などの建築を請け負っていた。土木工事である鉄道とは縁のなかった時代である。なぜ砂利の納入をしたのであろうか。鹿島岩吉の息子・鹿島岩蔵は鼈甲商であったが、その商人としての才覚、あるいは交流があった高島嘉右衛門とのつながりが砂利の納入へと導かれたのかもしれない。どういう形にしろ「鉄道の鹿島」を自負する鹿島にとって、日本初の鉄道工事にかかわっていたことは事実である。

明治5(1872)年9月(旧暦。新暦では10月)、新橋・横浜間の鉄道開通後、明治7(1874)年5月に大阪・神戸間、明治10(1877)年2月に京都・大阪間、明治13(1880)年7月に京都・大津間と線路は敷かれていく。明治13(1880)年に着工した日本で5番目の営業路線である長浜・敦賀間(明治17・1884年4月開通)の工事では、鹿島組が初めて鉄道請負として参画している。それ以降鹿島は、日本全国の鉄道工事を請け負うようになっていった。
(以上鹿島建設HPより)


新橋駅前広場とSL


二葉架道橋下