春草蘆(しゅんそうろ)


江戸時代、河村瑞賢(かわむらずいけん1618~1699)が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、その後大阪へ、さらに原三渓(1863~1939)によって横浜の三渓園に移され、昭和12年(1937)に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵・1875~1971)の柳瀬荘内に移築されました。
昭和23年(1948)に柳瀬荘が当館に寄贈され、昭和34年(1959)に春草廬は現在の位置に移されました。入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622~1693)の筆で、三渓が耳庵に贈ったものです。木造平屋建て、入母屋造、茅葺き、座敷は5畳と3畳からなります。(案内板より)



河村瑞賢
伊勢国度会郡東宮村(とうぐうむら、現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれるが、『評伝 河村瑞賢』(博文館)によれば先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた。
13歳の時江戸に出た。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模国小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。 (wiki)