大阪・芝川ビル

所在地大阪市中央区伏見町3-3-3
構造鉄筋コンクリート造地上4階地下1階
延床面積約1,626m2
竣工昭和2年7月1日
設計澁谷五郎(基本計画・構造設計)
本間乙彦(意匠設計)
施工竹中工務店
工費25万円(当時)
芝川ビルを建てた芝川家と伏見町の関わりは、「大阪百足屋」という呉服屋を営んでいた芝川新助が、天保8(1837)年に大阪淀屋橋浮世小路から伏見町4丁目(当時)に移り、唐物商を始めたことに始まります。

しかしながら、芝川ビルは、自家用の使用だけではまだ余裕があったため、教育に関心を持っていた又四郎の意向で「芝蘭社家政学園」という花嫁学校として使われることになります。

「芝蘭社家政学園」では、又四郎の義妹の芝川まき(千島土地㈱、百又㈱ 現社長・芝川能一の祖母)が園長を務め、当時、帝塚山学院の学長であった庄野貞一(さだいち)氏を学監*に迎えて、洋裁、和裁、習字、生け花、茶道、割烹など多彩な授業を開講する私学として、自由な構想で教育が行われました。

昭和4(1929)年の開校から昭和18(1943)年の閉校までに、関西一円の名門女学校を卒業した3,000人を超えるお嬢さんたち、いわゆる「いとはん」たちが学んだ「芝蘭社家政学園」は、現在の女子短大のはしりであったとも言われています。(芝川ビルHP)

明治23(1890)年になると、芝川邸は煉瓦造2階建の洋館と、日本家屋、土蔵に建て替えられます。

商家としての業務は洋館で行われていたようですが、洋館の屋根は木で、ドアも板に銅を貼っただけであるため、防火上心もとないとの理由から、帳簿は毎日、簿記係が土蔵から出し、業務が終わると蔵にしまっていたと言います。

この洋館は、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災により大きな被害を受け、取り壊しを余儀なくされましたが、暖炉部分は現在も保存されています。

■昭和2(1927)年 昭和2(1927)年、南米マヤ・インカの装飾を纏った芝川ビルが竣工します。 芝川ビルを建てた芝川又四郎は、かねてから店を不燃性の建物に建替えたいと思っていました。

そんな折、大阪倶楽部において建築家の片岡安のスピーチを聞き、鉄筋コンクリートが耐震・耐火性に優れていることを知り、鉄筋コンクリートへの建て替えを決意したと言います。

こうして建設された芝川ビルは、耐震・耐火性に細心の注意が払われており、その意気込みは、現在も建物の随所に見ることができます。

芝川ビルの竣工当時、ビルの建つ大阪・船場地区にはまだ和風の木造家屋が多く、問屋でも、配達用の手車が置け、小店員を泊めることもできる和風家屋が重宝され、洋風のビルでは都合が悪いといった時代でした。

又四郎がビルを建てたのも、防火の目的が主で、部屋を賃貸するというような考えはなく、全てを応接室・娯楽室など自家用として使用するつもりだったそうです。

まるでインカ文明の世界。