吉野ヶ里遺跡

吉野ケ里遺跡(2019年01月06日 朝刊)
現地で工業団地計画があり、1986年から3年間の予定で本格的な文化財の発掘調査が開始された。89年、大規模な墳丘墓などが大々的に報道され、「吉野ケ里ブーム」と呼ばれるほど全国の注目を集めた。91年に国の特別史跡に指定され、2001年に吉野ケ里歴史公園として一部開園。現在、国営と県営の部分を合わせて100ヘクタール余りが開園している。

吉野ケ里遺跡(2010年06月08日 朝刊)
佐賀県にある弥生時代の大環濠集落。工業団地の計画をきっかけに発掘調査が進み、大規模な遺跡であることが判明。甕棺に埋葬された青銅器やガラス製管玉、銅鐸(どうたく)、金属器の鋳型など様々なものが出土した。特別史跡に指定され、国と県が歴史公園として整備を進めている。(以上、転載)

吉野ヶ里遺跡が公表されたのは、はっきり記憶がありませんが、1990年ころではなかったかと思います。朝日新聞の一面に、発掘中の遺跡の写真が大きく掲載されました。丘陵らしきところにいくつもの穴が発掘されていました。数年後に訪れたときもまだ甕棺も数すくなく、現在のような姿になるとは想像もできませんでした。

集落と甕棺墓の再現

吉野ヶ里周辺地図

田手宿・東妙寺

宝珠山東妙寺
当寺は、釈迦如来を本尊とする真言律宗寺院で、宝珠山と号する。その創建は鎌倉時代にさかのぼり、弘安年間(1278-88)に後宇多天皇勅願による祈祷所として建立され、真言律宗総本山である南都(奈良)西大寺の唯円上人が勅命を奉じて当地におもむき、開基した名刹である。この後「関東御祈祷所」として鎌倉幕府ともかかわりを深め、元徳3年(1331)にはご醍醐天皇の綸旨を受け、建武新政期にも祈願寺として寺領保護がなされている。

このころを中心として、肥前国内の領主たちの帰依を集め、元寇恩賞地として幕府から彼らに配分された多くの土地が当寺に寄進された。これに伴う寺地の繁栄ぶりが、県下最古(鎌倉末期~南北朝期の成立)の寺院伽藍絵図である。「東妙寺并妙法寺境内絵図」に見ることができ、田手川をはさんで尼寺妙法寺と隣り合う広大な境内には、鮮やかな丹塗りの柱の金堂を中心に、五重塔、楼門、僧坊が配され、周囲には多数の建物が密集する門前が形成されていた様子が描写されている。

南北朝の争乱が始まって、一時九州に敗走した足利尊氏も、当時に立ち寄り祈祷を依頼して寺領を安堵、それ以来、室町幕府の保護を受けるようになる。やがて征西将軍懐良親王のもと、神崎荘一帯(現在の神崎郡)にも戦禍が波及すると、おのおの当寺と関係を結び時には寺社付近に布陣したこともあった。 現在も寺に残っている足利直冬らが発給すた梵網経は、このような時代の様相を物語っている。また、このころから幕府は全国政策の一つとして、諸国利生塔(りしょうとう)の設置を推進しているが、ここ肥前では当寺にて実施されている。

その後も三大将軍義光からの祈願寺の安堵を受けるなど将軍家累代の祈祷所として継続している。幕府の庇護の有様を知る例として、応永12年(1405)に奈良西大寺の高湛(こうたん)上人が、将軍義光に謁見して、このころの九州動乱による東妙寺の窮状を上申し、その結果、時の管領斯波義重が将軍の意を奉じて当時の保護を九州探題に命じるという一件も生じている。しかし、戦国時代になると、領主たちによる慢性化した寺領横領と、たび重なる戦禍を被ることになった。元亀2年豊後の大友宗麟の侵攻を受け、伽藍はことごとく焼失したという。

江戸時代、鍋島藩の保護下に命脈を保ったものの、明治初年の廃仏毀釈の難を受けて衰退の極みに達した。昭和中期からは同宗同派の別格本山の蓮華院誕生寺(熊本県玉名市)の庇護によって寺門再興し、今日に至っている。(境内案内板より)

田手宿・田手神社

田手神社は天智天皇もしくは斉明天皇の時代に建立されたと伝えられています。鍋島藩時代には、伊勢参りの代参社として、多くの人が参拝におとずれていました。
長崎街道田手宿では、
小倉から長崎まで宿場を結んだ長崎街道に残る「田手宿」江戸時代の姿を忍ばせます。当時、田手川には橋がなく、川底に石を置き渡ったという記録が残っています。

「当神社は約1300年前、杉野隼人願い出ること33回にて、天智天皇筑後にしばらく皇居されたとき、清浄晴沙の地を選んで、この地に天照皇大神宮を勧請し、荘厳な一宇を建立された。」と始まる案内板あり。あとは判読できず。