鋤崎土居(すきさきどい)

旧藩時代、柳川には交通や戦略上の役目を備えた水路が縦横に掘られました。ここ鋤崎土居の堀は奈良朝条里の堀を広げてつくられたもので、東方を衛る外城おの土塁跡であります。堤上には大樹が繁り、昼なお暗く人々を怖がらせたところであります。昔はこのような堀を擁した土塁が「外城三里」を囲んでいたといわれています。(案内板より)

隅町の川沿いに、画像右手の石垣、。江戸時代には土居という名の通り、高い土盛がなされ、城内を見通せないように樹木が茂り、柳川城を衛東の防衛ラインでした。明治以降、防衛の意味が亡くなったので、土居は削られ、樹木は伐採、柳の並木になりました。西鉄線のある東側ではなく、古文書館のある右岸です。この川べりを歩くと、三柱神社のあたりは、右岸が高くなっています。

柳川城外曲輪土居

この土居(堤防、写真手前)は、柳川城の東大手瀬高御門より眞勝寺土居の南に続く藤吉、今古賀の土居として江戸時代には、柳川城惣曲輪の「外曲輪の土居」といわれた貴重な遺跡です。 曲輪とは、城の周囲に築いた土居や囲い、領域のことで、惣領分曲輪、城中惣曲輪、町惣曲輪、外郭曲輪などがあります。 柳川城は、永禄年間(1558-69)に、蒲池鑑盛によって築城され、惣曲輪は鶴の形をしていました。慶長6ねん(1601)には、田中吉政が柳川城の天守閣を築き、四方に城堀を巡らし、石塁をたかくして城の防衛を強化しました。 その後、元和6年(1620)柳川城主に再任された立花宗成および歴代藩主によって外郭曲輪も改良整備されました。(案内板より、後略)

柳川城堀水門

柳川城堀水門
この水門は、城内に入る唯一の水門で、城の防御用に築造されました。万一の場合はこの水門を閉め、上流の矢部川の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河、宮永を残して周辺は水浸しとなり、全く島のような状況になったと言われています。このような壮大な水の仕掛けを持っていたことから、柳川城は水の城と呼ばれ、名城の一つに数えられました。水門の規模は両壁の幅2.6m、高さ3.8mで、平均50cmの角石を積み重ねて造られています。また、基礎には幅20-30cm、厚さ15cmの板が敷ならべてあり、堰板つき石組水門です。

川下りコース

矢留大神宮

矢留大神宮(やどみだいじんぐう)
祭神は天照皇大神。旧社格は村社。白秋詩碑苑の東側にある、掘割に囲まれた神社です。この地には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の六騎伝説が残っており、明治30年(1897)10月、境内に「六騎神社」が創建されました。祭神である「六騎」とは壇ノ浦で敗北した平家一族の6名とされています。 柳川市矢留町
六騎神社は両社併記の六騎・矢留大神宮と表されることもある。 祭神である「六騎」とは壇ノ浦で敗北した平家一族の難波善長(平益信)、加藤藤内(平正勝)、是永多七(平政直)、浦川天ケ左衛門(平高矩)、鳴神藤助(平親英)、若宮兵七(平清貞)とされる。
御手洗場
このお手洗い場の創建はいまより(後略、判読不明)

ひな祭り