浮羽の五庄屋

南新川の由来(案内板より)
この川は、江戸時代初頭、旧江南村に住んでいた五人の庄屋たちが思い立ち、この地域の村人と一緒に造り上げた人工の川です。新川ができる前のこの地域は、周辺の川の水位より土地が高かったため、水が思うように使えませんでした。そのため、穀物の収穫量も少なく、農民の飢えを見かねた五人の庄屋たちは筑後川の水をどうにかして引き入れようと話し合い、ここから約10キロ離れた筑後川上流の大石に取水口と、西部へ水が流れる用水路を造る工事の嘆願書を久留米の有馬藩に出しました。
子の嘆願書には、「工事の費用は、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ。」と書かれていました。1664年1月11日に工事が始まり、長野村の入り口には五人の「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、約2か月という短い期間で人口の川(南新川)が完成しました。
南新川とうきは市の北部を流れる北新川は、西部の田畑を潤します。新川は田畑だけでなく、その水源を利用した水車や唐臼が造られ、精米、製粉、また製?、酒造、櫨蝋や菜種油等の工業も支えました。 それらは久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた吉井町の商業にさらなる発展をもたらしました。また、新川の水は吉井町中の小さな用水路としても流れており、人々の防火、生活用水としても活用され続け、今もこの地域を潤しています。

案内板の地図

角間天秤(かくまてんびん)案内板より
角間はこのあたりの地名、天秤は金銀や薬の重さを量る秤のこと。田畑に水を地理入れるだけでなく、水害を防いで水はけをよくするためにも水量調節はとても大事なことでした。この角間の分水点を昔から貴重な品を計り分けた天秤の名を付けて語り伝えてきた人たちの思いは、今も用水路の水の歴史とともに息づいています。

大石、長野から流れてきた水は、この地点で大きく北本線と南本線の二つに別れます。 この二つの水量調整を行っているものが、北本線の取水口におかれた三つの石です。三つの石はそれぞれ大きさが異なっており、その配置によりきわめてバランスの取れた水量調整を実現しています。
そのためにこの土地を「天秤」と呼んでいます。またこの天秤に向かう直前の水路が二度にわたり曲がっており、水の勢いを弱めるという先人の知恵が今も生かされています。
現在、この天秤で別れた南北の両幹線水路の前後にも、3つの分水溝があり、流域に合わせて約二千ヘクタールの田畑を灌漑し続けています。

現在の Google地図

(左)角間天秤を実際のグーグルマップで拡大すると、石が並んでいるのを確認できます。
(右)江戸時代の大石堰は、昭和28年(1953)の大洪水により甚大な被害を受けて破損。現在の大石堰はその後に完成したものです。

南新川

これから2キロメートルばかり東のほうに五庄屋をおまつりした長野水神社があります。そのまた2キロメートルばかり東のほうに筑後川大石堰があり、そこからこの川の水を引いています。(案内板より)

素盞鳴神社

素盞嗚神は愛知、大阪、兵庫、奈良に多く、九州は久留米、八女、うきは市にある。ここはべんがら塗。

(以下浮羽HPより)素盞嗚(すさのお)神社は、通常「祇園(ぎおん)さま」の名前で親しまれている神社です。宝暦13年(1763年)の大火災をきっかけに、町中にあったご神体が現在地に祀られました。町の鬼門にあたるこの地で素盞嗚神が町を守ってくれていると言われています

鏡田屋敷

鏡田屋敷(旧籠田家住宅、平成8年、二日町指定文化財)案内板より
鏡田屋敷は明治期に吉井郵便局長を務めた佐藤家の住居で、佐藤家が入居した明治後期に、東方へ仏間や座敷を増築したものです。当初の形姿と性格は判然としませんが、主屋は平入りの入母屋造り二階建てで正面に下屋、背面に平屋建ての角屋を付した建物であったと考えられています。 増築時に南側の二階を増築し、座敷と併せて妻入りの大屋根を架け、現在の姿に整えられたようです。
東北隅に建つ土蔵は文久3年に建築され、明治26年に南側に像地区されたことが棟札かr判明しますので、主屋も同じころに新築され、増築されたと考えられています。江戸期に建てられた部分は、梁間三間半の上屋に一間半の下屋を降ろして土間を収め、明治期の増築部は梁間4間半の大きな小屋を組み、それぞれの時代に特徴的な架構形式を示しています。
増築部には欅の一枚板を敷いた二間幅の床の間を備え、二方に縁をめぐらした本格的な座敷や、大型の仏壇を収めた漆塗り仕上げの仏間があり、明治期の吉井らしい贅を尽くしたつくりとなっています。
敷地の北側から西側へ、南新川から引かれた才の木溝が流れ、そこから引かれた水路が庭園を貫流し、重層する屋根を戴く主屋や敷地の隅を固める二棟の土蔵、才の木溝に沿って長く伸びる付属屋と相まって、外部空間も豊かな表情を見せています。佐藤家に続いて居住した籠田家から町へ寄贈され、平成九年度に保存修理工事が行われました。