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若戸大橋が開通したのは1962年、翌1963年、門司、小倉、若松、八幡、戸畑の5都市が合併して「北九州市」が発足しました。新市の人口は約102万4000任、九州では初めての100万都市です。それから60年あまり、最初は人も通れた橋でしたが、交通量が増えて歩道は廃止。今は車の通行料金は無料となっています。さらに渋滞のため、21世紀になると若戸海底トンネルが完成しました。
皿倉山から洞海湾を見渡すと、手前の八幡枝光黒崎だけでなく、対岸の若松側の福北ゆたか線沿いにも工場が連なっているのが確認できます。

地図

戸畑市民会館展示

戸畑商店街

飛幡八幡宮

飛幡神社由来
右殿:須賀大神(須佐之男命)
中殿:八幡大神(神功皇后、応仁天皇、此売大神)
左殿:名護屋大神(道祖大神)
後鳥羽天皇建久5年遠賀郡花尾山城主上野介重業は武を重んじ敬神の志篤く城の鬼門に当たる枝光村宮田山に、八幡大神を崇敬、枝道ー戸畑ー中原の3村人の産土神として恭敬す。
天正年間戸畑汐井崎より戸畑お坂(現鳥旗)に遷座せられ、村人ことごとく崇敬の誠を尽くせり。
斯くては、戸畑は長足に進歩し大正6年より現在の浅生を宮地と定め、御社殿の御造営に着手し大正9年竣工並び同日御遷座を執行せられ現在に至る。

神饌蕎麦耕作地碑
江戸時代、戸畑の汐井崎(現在の西戸畑地区・天籟寺川河口のあたり)では、蕎麦の栽培が盛んで、「戸畑そば」という良質な蕎麦が作られていました。この碑は、当時、汐井崎にたてられていたもので、そこで耕作されていた蕎麦が「神饌蕎麦」であったことを表しています。 また、文化年代の庄屋文書の中には、「戸畑そば」が藩の御用として上納されていた記録も残っています。(境内案内板、戸畑区役所)

戸畑恵美須神社

寿永の昔(1182)平家の一門が壇ノ浦の合戦に敗れ、落ち延びが平家の残党が、飛幡の浦に隠れ住み、漁業を営んでいましたが、地付きの人々と相談して、出雲国美保の関の美保神社より、事代主命(えびす様)を勧請し奉祀したお社です。 むかしから800年間祀り継いだ由緒深い戸畑の氏神様です。小さなお社ですが、地域の私たちで祀り継いで行きましょう。

若戸大橋と若戸渡船

若松・古い町なみ

上田海運ビル
北九州市若松区の南海岸通りに建つ上野ビル(上野海運ビル)は、旧三菱合資会社若松支店として大正2年(1913)に建設されました。若松では貴重なレトロビルです。
撮影は2012年7月。2021年現在は、改装して貸しビルになり、カフェなど設けられているそうです。

出口番所跡
出口番所は船着番所とか、船改め番所とも言い、正徳年間(1711-1716)、福岡藩が人や品物の出入りを監視、管理するために設けたものです。若松のほか、芦屋と福岡に置かれていました。
この番所は寛延4年(1751)若松代官が廃止されてから、黒崎代官の管轄になり、明治4年(1871)に廃止されました。
極楽寺
浄土真宗本願寺派に所属し、御本尊は阿弥陀仏である。草創は、500年余年前に さかのぼり、後花園天皇の御宇足利義政の代、寛正元年(1460)と伝えられ、開基住職を道了という。
現在の本堂は(中略)昭和5年に竣工した。総建坪150坪、建築資材、技術ともにコンゴ再建不可能とされる紫宸殿造りの本格的伽藍であり、昭和期の寺院建築としては文化的存在である。 また、当山にはk「飛梅」にまつわる興味深い伝説がある。
第5世住職釈智秀は、太宰府天満宮の飛梅にいたく心を惹かれ、ついにあるとき思い余って「一枝を」と神官に所望したが、かなわず、失意落胆の末、帰路嘉穂郡穂波村天道駅に宿ったところ、夢に菅公が一枝の梅花を捧げ立たれたと覚えて枕辺を見ると、不思議にも梅花一枝に
折らるるも折るもつれなし 梅の花
と記された短冊が添えられていた。
(後略)(案内板より)
料亭金鍋本館表門国登録有形文化財
明治時代、筑豊炭田の石炭開発が本格化するにつれて、筑豊興業鉄道の開通(明治24年・1891)や若松築港により港湾が整備され、若松は石炭積み出し地として日本の近代化を支えました。
洞海湾に面した南海岸には、石炭商、海運会社、中央の銀行などの支店が進出しました。最盛期には、筑豊で産出する石炭の約8割が、若松港から国内外に供給され日本一の石炭積み出し港として繁栄しました。
「金鍋」は若松区の中心街に位置し、明治28年(1895)に創業した老舗の料亭で、数多くあった若松の料亭の中でも、著名な店の一つで、かつては多くの経済人や文化人が集う場所として広く利用されていました。
本館は3階建ての瓦葺の入母屋造り妻入りの細長い建物で、客室は2階の中廊下をはさんで両側に部屋が配置されています。各部屋はいずれも異なる書院風でまとめられており、全体として時代を反映した和洋混在のデザインとなっています。外壁は黒を基調とし、壁の窓は蝙蝠をモチーフとしており、料亭の華やかさと官能的な部分を表現しています。建築された年はわかりませんが、残された資料や様式から明治末期から大正時代に建築されたものと推察されます。
客を迎える表門は、両開きの板扉がつき、庇は銅板葺きで間口1.8メートルの角柱を立て、腕木などに丸太材を使用し、門の左右にはガラスの欄間の塀を配し、本館と一体になり、若松の繁栄を今に伝えています。
本館2階には、作家火野葦平が好んで使用した部屋があり「葦平の間」と呼ばれています。(案内板より)
若松の町
懐かしいポン菓子を焼いていました。また、商店街のあちらこちらに据え付けられた手押しポンプからは、勢いよく水が出ます。
若松みなと祭・五平太ばやしの練習中
かつて若松港は、日本一の石炭積み出し港として栄え、その石炭は「川ひらた」とよばれる小さな舟で遠く筑豊炭田から運ばれていました。その「川ひらた」の船頭達が、激しい仕事の合間に、舟縁を叩きながら、流行りの唄や民謡を口ずさんだのが、「五平太ばやし」の始まりと言われています。 その後、昭和29年に火野葦平により作詞され、若松の郷土芸能として、今では、多くの方に愛されています。 若松みなと祭りでは、郷土芸能五平太ばやしの周知、継承活動の一環として、「五平太ばやし通り競演会」、「五平太ばやし競演会」、「五平太ばやし総打ち」を行っています。 (若松のHPより)

折尾駅構内

2012年撮影。プラットホームの屋根は使用済みのレールでできている。福北ゆたか線と鹿児島本線が交差し、乗り換えの場合は煉瓦造りのトンネルを通っていた。鉄道ファンには惜しむ声が多かったが、折尾駅は今は新しく建て替えられている。