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五郎山古墳の石室は、複式横穴式石室と呼ばれるもので、玄室、前室、羨道からなり、一部をのぞきほぼ完全な形で残っています。全長は11,2メートルで、細長い羨道を通って被葬者を安置した玄室に至ります。
横穴式石室は、築造後も羨道を使って出入りすることができ、五郎山古墳の場合も最初の被葬者を埋葬した後、2~3代に渡って追葬が行われたと思われます。(古墳館案内板)

五郎山古墳

五郎山古墳は、直径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。昭和22(1947)年に発見され、のちに国史跡に指定されました。壁画は、赤、緑、黒の3色を用いて人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されています。築造された当初の姿に墳丘を復元整備しており、観察室から石室内部をのぞくことができます。(筑紫野市HPより)
補色後の壁画(1)
奥壁上段の壁画です。左端の二重丸の絵は、同心円文と呼ばれるもので、中国古代思想の影響を受け、太陽を表していると言われています。右下の騎馬人物は、馬にまたがり弓を引く人物を描いており、馬の尾の上には赤い縁とりの旗差し物があります。この人物は、五郎山古墳の被葬者ではないでしょうか。
補色後の壁画(2)
玄室左の壁画に描かれた船の絵です。舳先と艫(とも)は2本の線で描かれ、この船が準構造船であることを示しています。船の中央に描かれた四角い箱のようなものは、使者の魂を入れた棺とも屋形とも言われています。船の周りにある珠文は、「宿星(しゅくせい、夜空に散らばる星)と考えられます。このことから被葬者の魂を乗せ、夜の冥界に漕ぎだす船の図ではないかと推測されます。(解説文より)

墳丘は円墳で、復元され、古墳館で管理されています。石室内部は許可を得て中へ入ることができ、観察室から石室内を見ることができました。古墳館では石室内の実物大模型が作られていて、こちらも体をかがめて入り、古墳を体験することができます。壁画は補色されて鮮やかです。

筑紫神社の粥占

粥占(かゆうら)
粥占(かゆうら)は、五穀豊穣、国内安全を願って粥を炊き、粥の表面に発生するカビをみて、その年の農作物、天候、流行病の吉凶などを判定する行事です。使用する銅製粥鉢の銘文から、文化(ぶんか)2年(1805年)には筑紫神社で行われていたことがうかがわれます。
2月15日(旧暦正月15日)、元旦に氏子が神社にあげた年玉(白米に昆布・するめを混ぜたもの)の米約8合で神職が粥を炊いて鉢に盛り、その上に11月卯日の宮座(原田の本座・筑紫座)で用いた柳の箸を十文字に載せ、東西南北に仕切ります。
東が豊前、西が肥前、南が筑後、北が筑前で、それぞれに国名札を立て、木箱に入れ封印をして神殿に納めます。3月15日(旧暦2月初卯日)未明、神殿から粥箱を下ろして開き、神職と氏子でカビの生え具合を見て、それぞれの方角の吉凶を占います。(筑紫野市HPより)

金毘羅神社

第十八番恩山寺薬師如来

長崎街道・原田宿

安政5年(1858)ころの原田宿新町を中心として風景です。東搆口を出たところに、藁ぶき屋根の「はらふと餅屋」があり、その先から長崎街道と博多街道(天満宮参詣道)が別れています。長s会寄合町の上人たちが寄進した追分石も見えます。国号起源を持つ筑紫大明神は、今でも往時の姿を伝えており、一年の吉凶を占う」「粥占」の神事も昔ながらに行われています。(案内板)

長崎街道は、小倉を出発し、、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、と進み、原田を通って長崎へ通じています。