光雲(てるも)神社

所在:福岡市西公園
祭神:黒田勘解由次官孝高(如水)龍光院殿
   黒田筑前守長政・興雲院殿
如水、長政両公は全国的に有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、また福岡の名づけ親でもある。
光雲という名前は、両行の法名からそれぞれ1字ずつをとって付けた。
この神社は如水長政両公の子孫嗣高公が藩主になられたとき、、福岡市舞鶴城内(現平和台)本丸天守台の下に造られた。ところが明治4年(1872)廃藩置県の際、黒田家が東京に移転されることに決まると、歴代藩主の恩恵を慕うあまりに、旧藩民有志が当時11代藩主であった長溥公に懇願し、許可を得て明治4年8月、小鳥吉祥院(現在の警固神社の近く)に神社を移した。
明治8年3月県社に昇格、同年西公園に社殿落成移転。(案内板)

光雲神社拝殿

拝殿天井のめでたい雌雄の丹頂鶴の画は、舞鶴の地名にちなんで描かれたものです。中央は黒田家の家紋、「藤巴(ふじどもえ)紋」。

英知の洞察(境内案内板より)
壮麗よりも堅固を旨として、周囲の石垣積みもわずかに見附3門(北側の上の橋、下ノ橋、南側の追回し門)の両袖だけを低い土塁でつないだ城。一見無防備に見えながら、いったん開戦に備える周到な容易に次の例がある。
今も大名一丁目西鉄グランドホテル近くにみられる急カーブが 、築城法にいう四つ折り枡形町割りの仕掛け。四つ角をわざとギクシャク食い違わせ、いざ戦争のとき中心点の道路の一方を急造の家などでふさいでしまう。 突進してきた不案内の敵軍はそのまま別の道にそれ、城下町に入れないトリック。
また、海に面した寺院15はいつでも兵站基地になったし、老司の堰を切って落とせば低地部は水浸しになって侵入路を阻んだ。茫洋として八方くずれに見えながら、その実和戦いづれにも備えた福岡城の雄姿は、まさに時代の趨勢を洞察した英知によるものと言えるだろう。

荒津神社

光雲神社の右手にあります。西公園の場所は、博多湾に突き出た山で見晴らしがよく、博多湾へ入出港する船を監視する場所でした。
今では埋め立て工事が進み、山の周囲に海はありません。「荒津神社」の名称が往時の役目を忍ばせています。
「荒津」という地名から、波の荒い様子がうかがえます。 荒海から無事に帰還することを祈るための荒津神社です。 また、中腹にある「立帰(たちかえり)天満宮」も航海の無事を祈る場所でした。

荒津神社

博多湾の入り江と荒津の崎

荒戸神社から天神方面を撮影、右手奥が大濠公園です。かつて海は大濠公園付近まで深い入り江でした。
大濠の「鴻臚館」前に船着き場があり、館で遠来の客人をもてなしたということです。遣唐使はこの荒津の崎を通って中国へ渡っています。(2012年撮影)