上須惠町・眼病人宿

上須惠の地は、黒田家の御典医で百二十万石の禄高を受けていた田原養全家を中心に40数軒の宿場町が形成されていた。藩窯須惠焼の存在もあって、藩主の往来もしげく、かなり繁栄していたようです。
眼病人宿とは
「上須惠眼病人宿」とは眼病の治療のために訪れた患者が宿泊した宿のことです。江戸時代、上須惠には日本四大眼科の一つに数えられた田原眼科があり、全国から患者が治療を求めて集まりました。
診療記録「眼目療治帳」
江戸時代の診療記録「眼目療治帳」が現存します。この資料によると、患者の出身地は、北は北海道から南は鹿児島まで、年間1000人以上もの人がこの地を訪れたことが記されています。
眼病人宿の発展と衰退
上須惠村は、もともとは農村でしたが、全国各地から訪れる患者のために宿屋を営み、のちに職業化して屋号を持つようになりました。今も「肥後屋」「唐津屋」「日田屋」など地名にちなむ屋号が残っています。しかし、明治末に田原眼科が移転すると、眼病人宿も衰退し、現在では当時の面影を残すものはごくわずかとなっています。(須惠町案内板より)

須惠町歴史民俗資料館

目薬の歴史
日本では昔から眼病にご利益があるという神社や仏閣が各地にあり、江戸時代ごろから目薬が売られていたようです。当時の目薬はいずれも中国医学に基づき、様々な薬効成分を練り上げた軟膏状のもので、布に包んで水に浸して洗顔したり、毛筆やこよりなどを使って点眼するといったものでした。須惠の目薬「正明膏」もおそらく同じような使用法であったと思われます。
日本で最初の液体目薬は、1867年(慶応3年)発売の「精錡水」です。ジャーナリストの岸田吃香(「麗子像」で有名は画か岸田劉生の父)アメリカの宣教師ヘボン(ローマ字の創始者)から処方を伝授されて者です。 1899年には田口参天堂(現・参天製薬)の「大学目薬」が発売となり、このヒットで、液体の目薬は一気に大衆化しました。展示している吉松正明堂の「博士目薬」は大学目薬の影響のもとで生まれた商品と考えられます。(展示解説)

宿場跡

田原眼科屋敷跡
福岡藩医田原眼科の屋敷跡には、入口の石垣と井戸が残っています。門前には薬師堂が残っています。治療に来た人が参詣したと伝わります。屋敷の一部が須惠町史跡の指定を受けています。
田原眼科とは
田原眼科の祖は、豊後大友氏の家臣で、明暦年間(1655-58)にこの地に移住してきたと伝えられています。眼科医となったのは、二代目の順貞で、粕屋町の内橋で眼科を開業した天草出身の高場順世に技術を学びました。
3代目以降は養卜、養柏、養全と交互に襲名しました。その後、藩医に召し抱えられました。(4代養柏から12代養全まで)。9代養柏の弟が分家を興し代々養明を襲名しました。天保年間(1830-43)の頃、馬島、竹内、土生 の諸眼科と並び、日本4大眼科と呼ばれました。江戸詰として江戸に赴き、大名やその家族などを治療したことで全国的な名声を得ることになりました。(須惠町案内板より)

出土した須恵器

コムギ古墳(須惠町大字須惠・植木)で出土。「須恵」という地名は古代の須恵器の生産に由来しているとされ、ヨムギ古墳などでは須恵器が数多く出土しており、町内で生産されていたことも確認されています。
「須恵器」は大陸系の古代の土器で、5世紀の中ごろ、朝鮮半島から生産技術をもった人々が移ってきたことで、全国に広がっていきました。
 弥生式土器から発展した土師器の焼成温度が摂氏850℃前後なのに比べ、外来の須恵器は摂氏1000℃以上で焼成するという違いがあります。このため、須恵器は山麓の傾斜を利用したあな窯を築いて製作されました。 (須恵町HP)

須惠焼窯

福岡藩磁器御用窯跡(福岡県指定史跡文化財)
所在地:糟屋郡須惠町大字上須惠320番地
筑前の陶器「須恵焼」が焼かれた福岡藩御用窯は、宝暦14年(1764)福岡藩自社奉行おおの記録係であった新藤安平が興した窯である。
天明4年(1784)に創始者である新藤安平が没し、嫡子である新藤長平が初代須恵焼皿山奉行に就任し皿山役所を統括した。文化年間頃から経営が悪化し、文政12年(1829)に皿山役所は廃止となる。
ただし、役所廃止後も地元の陶工らによって操業は続けられ、安政7年(1860)頃には、時の藩主黒田長簿は殖産興業の一環として須惠焼を再度藩の管理下に置き、須惠皿山奉行の再設置を行った。 これ以後、須惠焼支城最大規模の生産を誇っていたが、幕藩体制の崩壊で明治3年(1870)須惠皿山役所も廃止となった
。 その後民間に払い下げられ操業を続けるが、数年でこれも廃止に至っている。だた、地元では小規模ながら操業は続けられ、明治20年(1887)には株式組織としての須惠焼が興されるが、数年で行き詰まり、明治35年(1902)頃の完全廃業にいたる。筑前領では最大の磁器窯で焼成機関も最長であった。
須惠や木の特徴は白地に青い絵の染付がほとんどで、藩用品から民衆用の一般雑器まである。書記から伊万里焼の影響を強く受け、幕末期は伊万里焼の影響はもちろん明・清の写しや、京・瀬戸、博多人形の影響も受けている。また、明治時代の「金錆染付」は須惠焼独特のもので、特に明治20年代に優れた作品が焼かれている。

写真右は、田原家の家紋「抱杏葉紋(だきぎょうようもん)」の染付。2014年4月撮影。