崇福寺山門一般公開

2012年4月、崇福寺山門が一般公開されるとの記事が新聞に掲載されました。 急な階段を上がると、楼内は広く、格子窓からは境内と正面の本堂が見えます。 展示された山門の鬼瓦には、「今宿」「又市」と銘があり、今宿の御用窯で焼かれた瓦であるとされています。江戸時代~明治時代ころ。山門内部に木造の如意輪観音像が祭られている半面、黒田如水、長政父子ががキリシタンであったと推定される瓦が残されています。瓦に十字の印が刻まれており、また、長政はローマ字印を用いていたことが資料として残っています。

崇福寺山門(内側)

崇福寺は臨済宗の大徳寺派に属する寺院で、山号を横岳山といいます。 仁治元年(1240)に湛慧禅師によって太宰府に創建されましたが、天正14年(1586)の島津氏と大友氏との岩屋城の合戦によって消失しました。 その後、慶長5年(1600)に福岡城初代藩主黒田長政によって現在地に再建がなされ、黒田家の菩提寺となりました。 長い歴史を有する同寺には多数の貴重な文化財が残されています。山門は福岡城本丸表門として建立されたもので、大正7年(1918)に陸軍からの払い下げによってこの地へ移設されました。(案内板より)

経蔵

唐門と本堂の間に位置する「経蔵」やその内部に経文を収めた「輪蔵」は19世紀の中ごろに建立された建造物で、県の有形民俗文化財に指定されています
このほか、福岡県有形文化財「崇福寺唐門」は市内に残る唐門の中で最古のものです。(案内板)

黒田家墓所

境内の北西に接して、如水や長政をはじめ四代、六代、九代の藩主などを祭った「福岡藩主黒田家墓所」が所在し、博多区にも御供所町の東長寺黒田家墓所とともに市史跡に指定されています。(案内板)

黒田如水の墓と碑銘

碑銘文には、「秀吉」の文字が読み取れます。

黒田長政の墓

ここは黒田藩にゆかりのある人々により明治24年に創設された報古会が、戦後1947年に「藤香会」と改称して墓所を維持管理しています。配置版によれば、2,3,8代は博多区の東長寺の墓所にあり、また、11代以降は東京青山墓地に埋葬されています。