松原神社

松原神社(日峯さん)の由来
松原神社は佐賀藩中興の祖とされる八8藩主鍋島治茂が、 鍋島家の先祖で反訴でもある鍋島直茂(法名 高伝寺殿日峯宗智大居士)を祀るために、安永元年(1772)この松原の地に日峯社(にっぽうしゃ)を創建し、日峯大明神として崇めたことに始まります。その後、文化14年(1817)に直茂の祖父清久と直茂の室彦鶴を、さらに明治5年(1872)直茂の子勝茂(初代藩主)の霊を合祀し、松原神社となりました。
一方、天保5年、(1834)には竜造寺三代(隆信、政家、高房)を祀る敷山社が北郊に造営されましたが、明治6年松原神社北殿に遷座し、鍋島家とともに祀られています。また南殿には明治6年に10代直正、大正12年には11代直大も合祀されましたが、その後、この2柱は佐嘉神社(昭和8年創建)の御祭神として遷座され、今日に至っています。
神園は松原神社に南接してあり、園内には清冽なる松原川の支流を引き、橋や家、築山があり、藤棚や松梅桜柳など各種の樹木が枝を交え、園池には鯉魚が群沐し、遊覧の客が朝夕絶えることが無かったといいます。大正12年には西側に隣接し閑叟公(直正)の銅像が建立されて銅像園が整備され、広大な公園となり、多くの市民の情操憩いの場となっていました。
日峯社から始まった松原神社は、地域の氏神様とは異なる成り立ちのため、県民すべてが崇敬者(氏子)であり、今でも愛称「日峯さん」として多くの方々に親しまれています。松原神社賛同にある「新馬場」は門前町として栄え、「日峯さん通り」とも言われていました。 私たちはこの通りから美香氏の賑わいを取り戻していきたいと活動しています。(佐賀ん町屋ば甦らす会の案内板より)

松原神社狛犬

阿吽の狛犬。唐獅子牡丹で華やかにドレスアップしています。

松原稲荷神社と大楠

楠神社

楠神社
御祭神 楠 正成命
    楠 正幸命
寛文3年(1663)佐賀藩の国学者、深江信渓、大木英鉄等が京都の仏師法橋宗南に託して、楠公父子桜井駅決別の像を作成し、佐賀郡北原村の永明寺に安置したのに始まる。降って嘉永3年(1850)楠公義祭同盟が結成され、安政元年(1854)地を竜造寺八幡宮境内に移して楠神社を建立し、この尊像をご神体として奉祀し毎年義祭を盛大に行った。 明治維新の元勲として告示に盡瘁した佐賀藩の大先輩、江藤新平、副島種臣、大隈重信等は、ことごとくこの同盟に加わり、後年世に出て名を成した。(案内板より)

楠神社

7人が立ち姿で集合する看板には、「楠公義祭同盟」とあります。佐賀藩出身の明治の偉人達です。、大隈重信、副島種臣、江藤新平など。

佐賀(龍造寺)八幡宮

佐賀八幡宮
御祭神 主神 応身天皇
    相殿の神 天兒屋根命、住吉三神
文治3年(1187)竜造寺季家が御神殿を創建し、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の御分霊を勧請して奉安し、竜造寺八幡宮と称して崇拝したのに始まる。降って慶長12年(1607)初代藩主鍋島勝茂は佐嘉城築城に際してこれを八万小路に遷座し、現在の神殿並びに拝殿を造営し常夜灯を寄進、藩祖直茂の室、藤のかたは肥前鳥居(現佐賀市文化財)を寄進した。 以後、歴代の藩主は佐賀地方の開府の神、佐嘉城の鎮護、武士の守護神として尊崇し、ことあるごとに祈願または奉告祭を執行した。
明治維新、廃藩置県となるに及んで藩費運営の制度はなくなり氏子十八カ町において一切を奉仕することとなった。(案内板より)

佐賀(龍造寺)八幡宮

本殿には2種類の家紋が掲げられています。鍋島勝茂が使用していた家紋は、「鍋島花杏葉」です。 龍造寺氏の家紋は、「日足」。きわめて珍しいもので、 太陽の光芒すなわち太陽光線を図案化したもので、家紋の分類としては「日の丸紋」に含まれます。

高寺

所在地 佐賀市白山1丁目
正しくは瑞石山龍造寺。臨済宗南禅寺派。本尊は十一面観音。 もとは龍造寺村(現城内)の高台にあり、遠く有明海からも望まれるほどだったので、高寺と呼ばれるようになった。慶長年間佐賀城築城の時、龍造寺八幡宮とともに現在地に移された。本堂は鍋島宗教によって改築された。
天井絵の龍は源左衛門秀精の筆。入神の技による龍は夜々抜け出して境内の池水を呑むので、和尚の法力によって画中に返したが、その時わざとうろこ1枚を落としたため、さすがの画龍も神通力を失い、再び水辺に戻ることはなかったという伝説がある。(案内版より)

長崎街道地図

赤い線が長崎街道。佐賀市内で曲がる回数が多い。楠神社、佐賀八幡宮では正面を通らず、裏へ迂回路をとる。(2012年撮影)