唐人町の由来

天正19年(1591)佐賀藩に召し抱えられた高麗人李宗歓(りそうかん)は秀吉の朝鮮出兵の際、通詞訳として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、佐賀にとどまることになった。 藩主鍋島直茂はこのことを不憫に思い、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村に、慶長4年(1599)宗歓が連れ帰ってきた高麗人の一段を住まわせた。その中には鍋島更紗を創始した九山道清もいた。唐人(異国人)の住む町として唐人町と名付けた。 宗歓の功績に対して苗字帯刀を許し、十人扶持と海外貿易の永代御用達商の免状を与えた。宗歓は、唐物の繊維品、陶磁器、金物類、荒物など日本にない珍しいものを輸入し、これを扱う商人が集ってきて、今日の唐人町の基礎ができた。 平成11年(1999)唐人町は宗歓の街づくりから400年の記念すべき年を迎えた。これを機に、唐人町は「未来に歴史を刻む街づくり」を目指し、21世紀に大きく羽ばたきたい。(案内板より)

※トップの画像は鏡圓寺境内の石仏や地蔵佛、六地蔵塔を撮影。

鏡圓寺

。 浄土院見佛山 鏡圓寺由来
開基 寛永3年
本尊 阿弥陀如来(佐賀藩国老多久美作寄進)
開山 専誉上人
由緒
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂公の姫付老女、秀島源右衛門の母の願いからこの地に鏡圓寺を建立した。 大正2年と昭和53年に火災に遭う。平成4年再建して現在に至る。墓地には唐人町に最初に居住した高麗人宋歓(御用荒物承認)一族同九山道清(鍋島更紗創始者)の墓がある。(境内案内板より)

※「浄土院」と書かれた石造りの門は目立たずに立ち、細い路地に続いています。灯篭や地蔵佛あり。

唐人町・・唐人神社ほか

写真左から、唐人町大師堂、中央は唐人町地蔵尊、右は唐人神社。

陶器の普及

灯篭(写真左)
鍋島直茂公(日峯公 佐嘉藩祖)は文禄慶長の役の際、朝鮮に出兵。慶長2年(1597)帰朝に伴い、「日本の宝として焼き物上手頭6、7人連れられ候」と記録にあります。 李三平氏を一段とする陶工たちが元和2年(1618)有田泉山に陶石を発見。李朝と同じようンあ磁器を焼成した。これが今日の有田焼の藩礎をなすもので、「御神祖様、日峯公」と崇め、有田皿山中より御神前に奉納されたものである。近年痛みがひどく、平成16年(2004)有田岩尾陶器会社の手によって修理ほどのため、ここに移した。(案内板)松原神社本殿に展示中。 白磁の鳥居(写真右)
松原神社境内に保存されている。

呉服元町の本陣跡、晒橋

唐人町からさらに南へ行くと呉服元町。長崎街道沿いに佐賀藩本陣跡の案内板があります。また細い川すじに「晒橋」とありました。これは呉服元町の名前から判断すると布を川で晒したのか、または罪人を晒したのか不明とのこと。
長崎街道は国道30号線呉服元町の交差点を東西に横切っています。西は呉服元町、東は柳町です。柳町の長崎街道沿いには、古賀銀行の古賀家のほか、旧牛島家(問屋業)、久冨家(履物問屋業)。旧森永家(煙草販売業)などの町屋建築が残されています。

柳町・旧古賀銀行

旧古賀銀行は、両替商・古賀善平が1885(明治18)年に設立した銀行です。1913(大正2)年には九州の五大銀行に数えられるまでに隆盛した古賀銀行ですが、1920(大正9)年以降の慢性的な不況によって業績が悪化し、1926(大正15)年には休業を余議なくされ、その後1933(昭和8)年に解散しています。
(佐賀市歴史民俗館のHP解説より転載)
2012年3月撮影。ひな祭りの展示中で、有田焼の内裏雛や地元和菓子素材の雛造形などが展示されていました。

長崎街道甘味処

長崎街道は別名シュガーロードとして知られています。羊羹で有名な村岡屋は唐人「宗歓」の名をどら焼きに付けています。なかみぞ菓子舗はひぜんえびすが目印です。長崎方面へ向かう街道、「こくらみち」と道しるべを立て、様々な型の和菓子を焼いています。白山にあるしるこ一平は「あわぜん」がおすすめです。