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今回は緑色の丸で囲まれた付近を歩きました。西鉄大橋駅からおよそ3キロ。片側2車線のみやけ通りは広く交通量も多いのですが、脇道にそれると、町全体の設計より先に、人口が急に増加したために町全体の設計は追いつかなかったという印象です。福岡市内では地価が上昇し、さら地を探すのは至難の技です。少し離れた高宮でも、なかなか難しい。 南区でも丘の斜面を切り崩しながら増殖し続けています。卯内尺古墳はすでに形がありません。 でも南区にこれほど古墳が多くては、全部を保存していくのは到底無理というもの。案内板を読んでいると、郷土歴史家の嘆きが聞こえてくるようです。

老司古墳

老司古墳の位置する那珂川西岸の丘陵上には多くの古墳群が尊愛しており、周辺でも卯内尺古墳、老松神社古墳群、妙法寺古墳群、小丸古墳、浦の田古墳などの前方後円(方)墳が知られています。
なかでも老司古墳の北側100メートル地点に位置する卯内尺古墳は、老司古墳に先行する4世紀中ごろの築造と考えられ、復元全長75メートル前後で、竪穴式石室から三角縁神獣鏡が出土したと伝えられており、老司古墳の被葬者に先立つ、地域の首長であると考えられます。
これらの前方後円(方)墳は地域の首長系譜をたどるうえで、我々に貴重な資料を提供してくれます。

卯内尺(うないしゃく)古墳

卯内尺古墳は、4世紀中葉の前方後円墳です。那珂川中流域西岸の標高約40メートルの丘陵上に築かれていました。
約200m離れた老司古墳の一世代または二世代前の福岡平野を代表する豪族の墓と考えられます。
1991年7月~10月に医療法人中村病院による造成工事に先立ち、福岡市の教育委員会により発掘調査が行われました。長年の造成工事で古墳基底部から破壊され、古墳のくびれ部付近をわずかに残す状況でした。調査で明らかにできたわずかな墳丘や墳端線をもとに現在の周辺地形測量や過去を検討し、本来の墳丘の復元を試みることができました。
卯内尺古墳は前方部を東に向けた三段築成の前方後円墳です。 その規模は全長73~78メートル、くびれ部幅24~26メートル、前方部長約28メートル、前方部幅28~34メートルと推定されました。
墳丘斜面には入念な葺石、平坦部には敷石が施され、各段の平坦部に壺方埴輪がならべられていました。
遺体を収めた施設は古くに破壊され不明ですが、玄武岩板石で構築された、「竪穴式石槨」に収められた木棺であったと推定されます。遺体とともに納められた副葬品としては、石槨内から三角縁神獣鏡1面(現在、九州国立博物館所蔵)、銅ぞく1点、布類などの出土が伝えられています。(案内板)

老松神社古墳

那珂川中流域の西岸に位置する老松神社境内にある古墳群(5か所)です。古墳が造られた時代は老司古墳や卯内尺古墳の前か、後かは未発掘のため貞かではありません。 福岡市教育委員会の事前調査では、箱型石棺を主体とする小円墳と言われています。

国史跡・老司瓦窯跡

老司瓦窯の発見
老子瓦窯跡は、昭和11年、道路工事中に偶然発見されました。当時、九州帝国大学の鏡山猛によって調査が行われましたが、窯跡はすでに壊されていて、その実態は不明なままでした。 その後、平成18年・19年度に発掘調査を実施、瓦窯の全容が明らかになりました。瓦窯は、岡の斜面に彫り込まれた地下式登り窯で、全長13.2メートル、一部をのぞきほぼ完全な形で残っていました。 下部から、薪などの燃料や製品の出し入れを行う「焚口」、燃料を燃焼させる「燃焼部」、製品を置く「焼成部」、「窯尻」、最上部には、煙排出のための「煙道」さらに焚口のほうから下方に広がる、灰や破損品を投棄する「灰原(はいばら)」という構造になります。

「老司式」瓦
老司瓦窯跡から出土した瓦は、老司Ⅰ式と呼ばれています。老司Ⅰ式の文様は、藤原京(694ー709年)の造営に用いられた瓦との系譜関係がうかがわれ、畿内政権との強い関連が推定されます。 また、老司Ⅰ式は、太宰府の観世尾温治の創建瓦を制作していたことが照明されました。 観世音寺は、661年に崩御した斉明天皇の追善のため、天智天皇が発願し、創建されました。幾度かの造営期や中断期を経て、天平18年(746)に完成しています。それに伴う老司の操業も比較的長期にわたっていたと推測されます。(案内板より)
源相は盛り土をし、芝生をはって地中に保存されています。老司公民館には、出土の遺跡が展示されています。 ナウマンゾウの臼歯レプリカ・・1951年警弥郷橋下流で発見。2万年前のもの。 石斧・・・卯内尺古墳から出土したもの。

老司の堰

慶長5年(1600)関ヶ原の戦勝功労大なりとして、豊前中津から52万国の太守として黒田長政は筑前国主となり名島城に入城しました。
そして黒田氏の居城として那珂郡警固村の福崎に白羽の矢を立て、慶長6年から7年間の年月をかけて福岡城が完成しました。
城郭は東に那珂川、西に金屑川を境に、北に海、西の入り江を大きな濠にした周辺立地の自然条件を巧みに取り入れています。さらに開戦に備える周到な用意に、次の例があります。
1:大名1丁目西鉄グランドホテル前近くにみられる急カーブが築城法にいう四つ折り枡形町割りの仕掛けとなっている。戦争の時、道路の一方を急造の家などでふさぎ、突進してくる敵軍を城下町に入れないトリック。
2:海に面した寺院15はいつでも兵站基地になった。
3:老司の堰を切って落とせば低地部は水浸しになって進入路を阻んだ。 このことから、老司の堰は約400年まえ、またはそれ以前から用水路取水用堰として存在していたかもしれません。当然、堰を切る役人が老司にいたことは明白です。(案内板より)

老司川と石井樋

那珂川中流域に設けられた老司井堰(1600年初頭の築堤)の左岸にある石井樋は、老司川の取水施設で、現在も水量調整用として機能しています。
2006年7月に内部調査し築造年の確認をしましたが、石組の記号と番号しか確認できませんでした。 老司川(用水路として造られており、従前は大溝と呼ぶ)については、老司井堰の築堤とともに石井樋も整備されたと考えられます。
この川の名前は老司方面では老司川、三宅方面ではイゲタ川など、向野、塩原、清水では大溝と呼んでおり、野多目の一部と向日佐(現在の向新町)と大字三宅、塩原、(含向野)清水までの旧三宅村の220町歩の水田を潤す。 そのほか大橋井立堰より、薬院溝で野間、高宮、平尾、下警固、薬院までその恩恵を受けていました。 佐賀市の石井樋は佐賀鍋島藩で重鎮にあり、佐賀県下で数多くの治水・利水事業を手がけた成富兵庫茂安が嘉瀬川から田布施川を通じて佐賀城内に水を引くために、元和年間(1615~23)に12年の歳月をかけて造られたと言われています。
写真でわかるように構造的に共通する技術がうかがえます。
福岡城には肥前堀があり、肥前の関係者等が、筑前・肥前街道(神崎街道)の那珂川町・老司を通って行き来していた事実もあり、何らかの関係性はあるやもしれません。(案内板より)