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岩屋城、大野城址から見渡すと、ここが軍事的に重要な地点であることがよく理解できます。二日市から水城を通って南下する日田街道、内野、山家宿から入る長崎街道が眼下で交差します。 四王寺山の真南には基肄城があり、ここからは太宰府都府楼跡を真北に見ることができます。

大野城からの眺望

大野城とは
ここ四王寺山の一帯には、今から約1350年前の西暦665年から造られた朝鮮式山城の跡があります。名を大野城といい、頂上域全体を囲むように土や石の城壁をめぐらし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられます。城壁は総延長約8kmにおよび、その途中4か所に出入口の城門を設けました。この大野城は同時に築かれた基肄城(眼下の平野をはさんで向かい側の南にある基山)、前年の664年に造られた水城とともに太宰府を守る役目を果たしました。
大野城が築かれた理由
7世紀の中頃、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の3国が抗争を繰り返し、 唐と手を結んだ新羅から、百済と日本の連合軍は大敗するという事件(白村江の戦い)が起きます。 唐と新羅の侵攻を恐れた日本は北部九州を中心に防衛網を作りますが、その一つが大野城、基肄城、水城なのです。(案内板より)
四王寺山の名
築造から約100年経った奈良時代末、大野城内に四天王をまつり、仏の力でも国を守ろうとしました。四王寺山という今の名はこの時の寺い由来するものです。(案内板より)

石垣と土塁

城の構造
城壁は屋根の部分は土塁、谷の部分は石垣を築いています。 高床倉庫は柱が立っていた石だけが残っていますが、その上には建物が立っていたと考えられ、倉庫内には米や武器などを収納していたと思われます。近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化したコメが見つかり、この場所は焼米ケ原と呼ばれています。

太宰府口の城門

岩屋城址と紹運の首塚

岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後の武将高橋鑑種によって築かれた。同12ねん、彼は大友宗麟に叛き城を追われ、変わって義弘鎮理(高橋紹運)が城主となった。紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大群を迎え激戦の末、秀吉の援軍到着を待たずに玉砕し開城した。(案内板より)

※二日市の駅から徒歩15分ほどのところに、紹運の首塚があり、その正面は四王寺山の岩屋城に向いています。義に篤く、潔い紹運は悲劇の最後を遂げました。私の周りにはファンが多く、合戦の折には祖先が駆け付けたという人もいました。突然訪れても花が備えてありました。(2013年撮影)