筑前町・大己貴神社

所在地 朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷
祭神 大己貴命、天照皇大神、春日大明神
地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。このお宮は神功皇后の伝承地で、皇后が新羅との戦の時、兵が集まり難かったので、 兵が集まるように社を建てて祈願したとのことです。この時の社がこの神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。 社殿、拝殿は町の重要文化財に指定され、江戸時代末期から明治初頭の建造物で、原形は八幡造でしょう。 二棟の切り妻造り、平入りの建物が前後に接続した形をしています。 しかし、建物の中間に石の間を置き、前面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。 拝殿には唐破風の向拝がついています。(説明版より)

参道と神橋

zennkoku 神橋にはすでに川は流れていない。滑りやすいので通行禁止となっています。

恵蘇八幡宮

朝倉市山田166
斉明7年(661)朝鮮百済救済のため援軍派兵の際、武運長久を祈願し、宇佐神宮より応神天皇の御霊を勧請し建立されました。恵蘇八幡宮三柱大神:斉明天皇(35、37代)、応神天皇(13)、天智天皇(39)を合祀。
(注)宇佐神宮は全国で4万社あまりある八幡宮の総本宮です。祭神である八幡大神は応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に示顕になったといわれています。

漏刻(水時計)

漏刻(ろうこく)
天智10年(671) 6月10日、天智天皇は漏刻(水時計)をつくって人々に時を知らせたと伝えられています。実物はわかっていませんが、中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられています。この漏刻は4個の桶を段違いにならべたもので、第1番目を夜天地、第2を日天地、第3を平壺、第4を万水壺といい、万水壺の中には矢が建てられています。
第1の壺に水を灌ぐと、水は管を通って順番に一番下のつぼである万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜連れて矢が浮き上がるようになり、矢に記されたも森を読み取ることで時刻を知る仕組みとなっています。
現在、恵蘇八幡宮では6月10日(時の記念日)を記念して、毎年同日に式典が催されています。(案内板)

御陵山(恵蘇八幡宮1,2号墳)

日本書記によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のため7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日目の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り・・・・」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陸上には方2間(1.8メートル)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と記されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳2基とみて指定している。(案内板)

筑後川・山田堰

山田堰は筑後川の水を農業用水として利用するため、江戸時代に作られました。 せき止められた水は筑後川右岸の水門を通って堀川を流れ、8km以上隔てた田畑まで送られます。 水門部分(取水口)は恵蘇八幡宮北側の御陵山から連なる岩盤を人力で一部くりぬいて造られた切貫水門となっています。 堀川が開通した時の席は筑後川の小さな集落を利用した簡単なものであったと考えられます。 その後、取水量の安定を図るため、100年以上の歳月をかけて改良が加えられ、寛政2(1790)年の工事によりほぼ現在の形になりました。 緩やかに右にカーブして流れる筑後川に流れに斜交する石畳を築造し、水はカーブの外側(右岸)に設置される水門へと導かれます。 平水時は筑後川の本流となる「船通」や「土砂土」部分を水が流れ、増水時には、石忠美全体を水が越えることで堰の安全と取水量の安定を保っています。(案内版より)
2012年6月、御陵山下り坂で撮影、水の流れが激しく聞こえる。