大村武家屋敷街

慶長4年(1599)領主おい小村喜前が玖島城を築き、三城城よりこの地に移ってきます。それに伴って、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。 当初、本小路、上小路(うわこうじ)、小姓小路、草場小路、外浦(ほかうら)小路の5つの通りが造られ、「五小路」と呼ばれました。のちには、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原(くばら)、日向平(ひなたびら)などの武家屋敷街もできています。(案内板)

本小路武家屋敷街

五教館御成門
五教館は大村藩が設立した藩校で、その起源は4代藩主大村純長が寛文10年(1670)に大村城内に創設した藩校集義館にさかのぼります。その特徴は武士の指定だけでなく、広く一般にも聴講を許した点にあります。(中略)
1831年、現在の大村小学校の地に移転しました。五教館は幕末、明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出し、明治6年に廃校となりました。この御成門は黒門と呼ばれ藩主が来校した時の専用門として使用されました。(案内板)
石井筆子
近代の女性教育と知的障碍児の教育福祉の先駆者です。1861年城下の岩船で大村藩士渡辺清と妻ゲンとの間に生まれました。
若くしてフランス留学を経験した筆子は津田梅子とともに華族女学校の外国語教師を務めるとともに、大日本婦人教育会の日本代表となるなど、女性の教育と権利向上に貢献しました。しかし子供が知的障害児だったことから、その福祉と教育に関わるようになります。(後略、案内板)
大村牢跡
本小路牢とも呼ばれ、慶安元年(1648)3代藩主大村純信の時に、長崎奉行からの要請で、異国の囚人や特別に幕府の指令によって捕らえられた罪人などを入れるために造られました。
牢に入れらえた者には、長崎で捕らえられた大阪の落人、郡崩れの時の潜伏キリシタンたち、幕末の大村騒動の囚人などがありました。この地にも長崎奉行より囚人を預かった記録があり、長崎に近い大村藩の役目をうかがわせる場所です。
現在では得に「そのあとは残っていませんが、本小路から小姓小路に通じる坂道を「牢屋の坂」と呼んでいます。

小姓小路武家屋敷街

小姓小路
小姓とは、殿さまのそばで仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んで通りであったことから小姓小路と名付けられました。のちには、小姓衆だけでなく他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を超えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。(この案内板は線路の手前にあります。直進できないので、坂道を迂回しなければなりません。)

旧楠本正隆屋敷