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JR大村駅は木造駅舎で淡いピンク、屋根は黒瓦です。観光であれば玖島城の花菖蒲が有名ですが、 思いがけないオブジェもありました。 駅前の「天正広場」にある天正夢時計です。天正10年(1582年)ヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節の4人の少年の偉業を記念して設置されています。大村氏がキリシタン大名だったことに依るのでしょう。大分駅に大友宗麟像が立っているのに比べて遠慮がちです。

玖島城・板敷櫓

玖島城は1599(慶長4)年に築城されましたが、板敷櫓の記述はありません。板敷櫓を大村の城と思っている人は多いと思いますが、残っていたのは美しい石垣であり、櫓は1992年に復元された建造物とのことです。少し落胆するかもしれませんが、もしここに櫓がなければ、もっと地味な公園になっていたでしょう。白い壁が菖蒲によく似あいます。

本丸跡

ここは大村藩2万7千石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長3年(1599)に造られた城です。その後、慶長19年(1614)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改宗し、この時、虎口門、台所門、搦め手門の3つの入口の形が定まったと伝えられます。
本丸の敷地のうち、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には、大広間など侍杖所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。
城に天守閣はなく、平屋の御殿でした。本丸をめぐる石垣の上には塀を巡らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。
図面は江戸後期の玖島城本丸を描いたもので、政庁や藩主居館の位置や間取りを見ることができます
。 玖島城は、明治4年の廃藩置県で大村県庁がおかれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。その後、明治17年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。

大村藩お船蔵跡(県指定遺跡)

大村藩お船蔵跡
この船蔵は玖島城に酢族した施設で、4代藩主が元禄年間(1688-1793頃)に築造したものです。ここには殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。 江戸時代、船は貴重な交通手段でしたが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗り物でした。藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴くときは船が多く使われました。このほか、兵員輸送や物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。したがって、船蔵は、藩にとって重要な船を格納する場所であり、軍事船の備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。 この船蔵はもとは外浦小路の入口にあったことが記録に出ており、元禄年間に現在の場所に移ったとされています。また複数藩下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。 このお船蔵の後ろ正面教育センター付近には「米蔵」や「硝石小屋」「船役所」などがありました。(後略、案内板)
この船蔵には3本の船渠(ドック)があり、1本の長さは31メートル、幅は8.4メートルで、船蔵屋(屋根)の礎石や石垣が残っています。船蔵は、多くの藩に設けられていますが、原形のまま保存されているものは極めて少なく、貴重な遺構です。

新蔵波止

貞享3年(1686)、幕府が官米3千石を筑前から運んで預けたとき、2棟の新蔵を建て、この波止を築いた。以後も藩船などの発着に利用した。

石垣

玖島稲荷神社

玖島崎樹叢(くしまざきじゅそう)

玖島崎樹叢(くしまざきじゅそう)
この樹叢は玖島城の本あるを取り囲むように茂る自然林で城の東側の斜面から教育センターの手前まで広がっています。(中略)玖島城には江戸時代にすでに大きな樹木があり、大村を来訪した文人の日記にもお城の建物が樹木で見えないというエピソードが出てきます。廃城となった後、人の手が入らなかったため、林が自然の状態へと戻っていき、現在のような大木を含む樹叢になりました。

梶山御殿

この屋敷は「梶山御殿」と呼ばれ、江戸時代後期んい第10代藩主大村純昌(すみよし)のときに大村家の別邸として建てられたと言われております。当時、この大村公園一帯は、大村藩の居城玖島城があり、子の別邸はその一角に造営されたものです。明治となってお城が廃城となったあとは、大村男爵家(分家)の住まいとなりましたが、昭和38年に県の施設となり、その後、平成2ねんに大村市の施設となりました。現在の建物は大正4年に建てられたもので、木造平屋建ての屋敷で奥には蔵も残されています。現在は大村の教育施設として使用されています。

地図

大村寿し