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向野堅一記念館は旧讃井病院といい、正面玄関の石垣には、十字のマークが彫られています。同じ通りには江浦耳鼻咽喉科があります。さらに、直方市谷尾美術館は、かつて大正時代には皮膚科として開院した奥野医院です。このように、貝島炭鉱で栄えた直方の街には、多くの病院が建てられ、それぞれ資産家だったことがわかります。

旧福岡銀行南支店

この建物は大正2~3年に十七銀行直方町支店として建てられた洋風建築である。現在は撤去されているが、建築当初は南東隅の屋上にドーム状の屋根を設けた「ハイカラ」な外観であった。その後、金融恐慌のもとで福岡銀行を合併、十七銀行直方古町出張所となり、さらに昭和20年には嘉穂銀行、筑邦銀行などと合併し、福岡銀行南支店と改称した。
南支店閉鎖の跡は谷尾欽也氏によって平成9年に「アートスペース谷尾」として開館した。同氏没後の平成14年に市に寄贈され、平成15年に現在の直方市美術館別館「として開館した。 内装は現代的に改装されているが、風格あるレンガ造りの外観は当初のままであり、市内では数少ない近代洋風建築として貴重な存在である。

大曲りとアーケード街

長崎街道はアーケード街を通っています。JR直方駅から南方向へ、古町商店街、殿町商店街、明治通り商店街、須崎商店街と続きます。その中でも、武士が住む殿町商店街と民家との間には、「大曲り」という工夫がありました。
大曲り(おおまがり)
殿町と古町の境界付近を通称「大曲り」と呼ぶ。道は現在ではアーケードの中を直進しているが、城下町時代の街を描いた絵図「直方惣郭j図」では西側に「コ」の字に折れ曲がった道筋であったのがわかる。
これは合戦の時に、町なかの見通しを妨げるための、城下町特有の構造である。町屋(古町)と
武家屋敷(殿町)の境に位置するため、このようンあ厳重な回り道を設けたと思われる。 このほか直方城下町では、鍵形に折れる道やわざと食い違って交差するなど、各所で防備のための工夫がなされていたが、道路拡張でその多くは存在しない。その意味でも、「大曲り」は城下町の名残りを占める貴重な道筋である。(案内板)

貝島邸跡

貝島太助
弘化2年(1845)- 大正5年(1916年)。日本の実業家。筑豊御三家の一つである貝島財閥の創始者であり、筑豊炭田のうち貝島炭鉱を開発して「筑豊の炭坑王」「筑豊の石炭王」の異名を取った。

向野堅一記念館(旧讃井病院)

向野堅一記念館
向野堅一は、明治元年新入村に生まれる。遠き満州にその名を残し、終始一誠、人を愛して国を憂いては命を懸けた不屈の男である。
修猷館から日清貿易研究所へ進学。日清戦争のとき、特別任務を命ぜられ、任務に従った者のうち、ただ一人だけ九死に一生を得て、使命を果たした。
これからは「商業の時代である」という信念をもって、北京、大連、奉天を舞台に、日中合資の正隆銀行、満州市場株式会社などを設立し、満州経済界を指導する。昭和6年東京で逝去。満州事変勃発の前日であった。
台湾仏教布教にも活躍。奉天に大義寺を建立し、民族を超えて戦没者を祀る。書画、篆刻、謡曲をたしなむ芸術愛好家でもあった。旗袍(チーパオ)を纏うその凛々しい姿は、今、私たちに何を語ろうとしているのであろうか。黄塵を馳せ、アジアの平和を願いつつ、奉天の町をつくった強くやさしい日本人、堅一のその想いをつたえるため、この記念館は創設した。(案内板)

石原商店

1926年建設、木造2階建て、瓦葺、直方市殿町590-3
前田園本店の北隣に並び建ち、木造二階建、切妻造桟瓦葺。二階正面に穿つ横長の大窓下に中二階用の小窓を並べて庇を付け、一階の軒庇とともに、三層構成の立面とする。内部のミセ上部を一部吹抜とし二階は座敷とする。前田園とともに良質な街路景観をつくる。明治44年(1911)創業。

前田園茶舗

1927頃建設、煉瓦造及び木造2階建、瓦葺
店舗の後方に座敷などを介して東西棟で建ち、煉瓦造及び木造二階建、切妻造桟瓦葺である。東妻が出入口で西妻に鉄板張の扉を開き、周囲に窓を穿つ。外壁は鉄板張で内部をモルタル仕上とし、小屋はキングポストトラスを組む。茶などの保管用に建てられた倉庫。

江浦耳鼻咽喉科

直方谷尾美術館


旧奥野医院。経済産業省認定 近代化産業遺産 この建物は、奥野医院として建設されたものです。直方市が筑豊炭田の中心であった明治期に、この付近には貝島炭鉱の本社があり、近代的な医療機関が多く建設されました。
奥野医院は、大正2年に皮膚科として開院しました。その後、昭和15年に火災に遭い、この建物はその後に建設されてもので、今も事務室の浦に火災の跡が残されています。
建物は木造2階建てで内部中央には大正期のモダニズムを象徴するような円筒形の部屋もあり、現在も応接室として公開されています。
正面は洋風建築ですが、奥の部分は和風建築で茶室も併設しています。
奥野医院は平成2ねん(1990)、院長の死去に伴い閉院しましたが、その後、谷尾欣也氏により谷尾美術館として開館。同氏没後、遺族によって市に寄贈され、平成13年(2110)現在の直方氏美術館(直方谷尾美術館)として開館されています。(案内板)