那珂川流域に広がる旧跡

福岡市に隣接していながら、1970年代までは人口約1万人の町でした。それから急激に都市化が進み、1977年には人口は2万人に増加しています。小中学校、保育所が建設され、水道が設置されて土地区画整理が始まりました。 歴史の遺跡や名所、景勝地に目を向けると、大変興味深い土地柄です。郷土案内のボランティアもおられ、思いがけない歴史とふれ合うことができます。農業から派生した神社、遺跡が多いのですが、、地元の農業人口は2000年には400戸余と減少しています。

wikiより那珂川の沿革抜粋
1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行により、那珂郡に3村が発足。安徳村、岩戸村、南畑村
1896年(明治29年)4月1日 - 那珂郡・席田郡・御笠郡の三郡を統合、筑紫郡となる。筑紫郡安徳村、岩戸村、南畑村。
1956年(昭和31年)4月1日 - 安徳村、岩戸村、南畑村が新設合併して町制施行、筑紫郡那珂川町となる。

(中略) 2006年(平成18年)2月 - 裂田溝が日本疏水百選に認定される。
2010年(平成22年)9月 - 人口5万人を突破。 2018年(平成30年)10月 - 市制施行により那珂川市となる[1]。同日に筑紫郡も消滅した。日本における平成最後の市制施行となった。

周辺地図

左図は那珂川下流域(北側)、右図はその上流域(南側)

背振神社

祭神:多岐理姫命、市杵嶋姫命、多岐都姫命、弁財天
建立年:享保年間より以前
所在地:弥永1丁目
古より多岐理姫命ほか2女神(いわゆる宗像三女神)を奉祀してあった福岡県と佐賀県の県境にそびゆる背振山頂の神祠に、仏教伝来以後の今より1130年前にあたる貞観3年(861)に韓国より渡来されたと伝えられ、弁財天を神仏合祀されたという背ぶり神社下宮z8佐賀県東背振村)より坂井若狭が現在地の弥永に勧請し奉祀したと伝えられる。(筑前続風土記拾遺)

警固神社

鎮座地:福岡市南区警弥郷3丁目(旧上警固)
御祭神:神直日神、大直日神、八十禍津日神

警固大明神記録に「警固神社は昔、那珂郡(ごおり)警固村に祀ってあったが、神宮皇后が遠征の際に勝利を祈り、この3神を外的防護のため、下警固村の福崎に祀られた」とある。
那珂郡警固村が当地であり、下警固村福崎は黒田長政公が福岡城を築く時その敷地となったので、宏壮な社殿を建立して遷し祀られたのが、現在天神2丁目の警固神社である。このように下警固の神社より古くからこの地に祀られていたのが、当警固神社である。下警固のほうは歴代藩主の尊崇厚く造営修繕等から神事にいたるまで藩庁からの公費が支給されたが、こちらは上警固村の氏神であり、数少ない氏子の農民で祭り継がれて来たのである。
筑前続風土記の上警固の項に「村名は警固神社のいますによりてか、または警固田の置かれし故に言えり」;とあり、また三代実録に、「警固武衛の必要があり警固田からの租税を警固所の雑用に充てた」とある。
祭神3神とも疾病災厄科を祓いて禍を転じて幸福となし、悲しみを変じて吉慶となし給う崇高なる御神徳にて国家安泰社会浄化の守護神として崇敬篤きなり。(案内板より)
「天満天神」(写真下の右端の社)
この天満天神は菅原道真公を祀る神社である。昔は今の薬師堂のある場所に祀ってあったが、昭和18年の大火災のとき、被災を免れたのである。火災跡の区画整理の時に、この境内に移して、跡地には近くにあった薬師堂が建てられている。(案内板)2021年撮影。

春日神社

所在地:福岡県福岡市南区弥永1丁目
由緒記述なし。

現人(あらひと)神社

全国に二千余社ある住吉三神をお祀りする神社。
神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国で受けた穢を祓う為、現人神社のそばで禊祓いをされた際に生まれたのが住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。
約1800年前、神功皇后により、神功皇后の命により、藤原朝臣佐伯宿禰が祀官を務めるようになりました。平安時代になると、朝廷より派遣された大蔵原田氏、少弐氏により尊崇を受け、広大な境内を有し繁栄を極めました。博多の住吉神社とともに、後白河院領として広大な領地を有していたのです。
約900年前の寿永年間、太宰少弐原田種直が岩戸河内(那珂川市安徳)に館を設けた頃より、現人神社は岩戸郷二十三ヶ村(那珂川市)の総社として仰ぎ奉られました。 (後略)

岩戸公園と安徳公園

おそらく古墳だと思われます。
岩戸公園は大通りのすぐそばにある小さなグランドですが、その中に小山に高くなっている箇所があります。まるで円墳のような形です。上は平たく小さな広場になっています。上るには急な階段を上るか、でこぼこした坂を上ります。
安徳公園も同様、住宅のなかに小山があります。傾斜は岩戸公園と同様に、かなり急こう配です。山の上は桜に囲まれた広場で花見どきにはにぎわうそうです。