秀吉の夢・7年間

名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。 1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。 城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。 現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。(博物館HPより)

名護屋城・大手口

城の正面入り口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」と呼ぶ道がのびています。平成4年度の発掘調査で櫓台下の東側広場から掘っ立柱が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡を見つけることができました。同年櫓台を中心に崩壊危険個所の石垣修理を行い、あわせて遺構ほぞを兼ねた、広場の植栽を行いました。(説明版より)

櫓台

階段を上ってみました。踏み込みが浅く、急こう配で、しかもでこぼこしています。穏やかな顔の石仏たちは、何を思っているのでしょう。谷から吹きあがる風に吹かれて心地よさそうです。

東出丸

東方に張り出した長方形の曲輪で、「千人桝」と呼ばれています。大手口、三の丸警固のための侍詰め所があったと推定されます。
昭和63年度(1988)の発掘調査で、門礎石「、玉砂利敷、石段が新たに発見されました。 現在は、曲輪内部は、盛り土、芝張でこれらの遺構を保護しています。 櫓台と内側、外側の石垣危険個所については、平成2年度(1990)に緊急修理を実施し、併せて、大手口から東出丸への仮園路を整備しました。

家康布陣跡

なんということでしょう!ここでカメラのバッテリーが切れました。ショックを隠せない。

名護屋城博物館

(写真上) 名護屋城博物館外観
(写真右下)安宅船・亀甲船(あたけぶね・きっこうせん)
[復元模型]日朝両国の軍船を10分の1で復元しています。安宅船(あたけぶね)は「肥前名護屋城図屏風」に描かれたものを再現しています。 1592年から7年間にわたって行われた豊臣秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱イムジン チョンユウェラン)をテーマとしたコーナーで、常設展示の中核的存在です。(説明版より)
(写真左下)トルハルバン
済州道北在住チャンコンイク氏制作。博物館の正面入り口に立っています。
韓国済州道独特の伝統的な石人像。朝鮮半島本土のチャンスンと同様に、邪悪なものを避ける一種の守護神としてたてられていた。