旧唐津街道・姪浜

唐津街道は江戸時代の主な街道の一つで、現在の北九州小倉北区から佐賀県唐津市までの区間です。福岡藩が長崎警備(2年に1回で、佐賀藩と交代で警備)にあたるときや、唐津藩の参勤交代のときなどに通りました。
唐津街道は初めのころは小倉から福岡藩に入り、若松、芦屋、赤間、畔町、青柳、箱崎、博多、福岡、姪浜、今宿、前原、深江、浜崎を経て唐津に入っていましたが、のちには小倉から黒崎、木屋瀬(こやのせ)を経て赤間にいたるコースになりました。
唐津街道の宿場の一つである姪浜宿は、福岡藩の茶屋(大名や幕府役人のための宿白所、他の街道の本陣にあたる)が置かれたほか、漁業や海運業、良質の塩の産地として栄えました。今なお古い町並みが残っており、昔を感じることができます。(案内板より)

姪浜宿地図

住吉神社

住吉神社の起源は、奈良時代の天平十五年(西暦七四三年)九月二十九日の夜半、住吉明神のご出現があり、翌年四月十三日にも異国 船来襲の調伏祈願の折にご出現され、このため一宇の小社を建立し住吉三神をお祭りしたことによります。
毎年6月には河童祭が行われ、夏を怪我や事故がないように祈願し、河童面を頒布します。(社のHPより)

旦過だるま堂&亀井南冥生誕地

黒田藩儒学者・亀井南冥
1743年この地に生まれる。 14歳で肥前の儒走大潮に学び、17歳で長崎に遊学。
19歳で大阪に出て医学、儒学を学び、荻生徂徠の学説を報じた。
23歳で父とともに唐人町に蜚英館(ひえいかん)を興し、医と儒に従事、門前市を成す盛況であった。
36歳で藩医、42歳で藩校西学問所「甘棠館(かんそうかん)」に招かれ、のちに館長となる。(東学問所は、福岡藩校の修猷館)全国より1000人を越す門弟が集まった。その門弟には、広瀬淡窓、平野國臣など。
貝原益軒とともに福岡が生んだ著名学者の双璧です。この標柱と解説は姪浜公民館教養講座の地元有志により建立。旧電柱廃材を利用している。(案内板より)

旦過だるま堂
ここは、興徳寺の旦過寮があったところです。旦過寮とは、旅の僧を宿泊させ、もてなすところで、大きな禅寺には今でもあります。
中国の禅僧の開祖である“だるま(達磨大師)”が祀ってあり、江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に作られた大きな銅つくりの厨子(仏像・舎利・経典などを収める仏具)や、室町時代に作られた五重石塔があります。石塔は繁層式五重石塔と言われる形式で、姪浜石(砂岩)で作られているため、風化が進んでいます。(案内板)

興徳寺

臨済宗大徳寺派。山号は海晏山。
寺伝によれば、文応元年(1260)鎮西探題北条時定の開創という。
宋より帰国した南浦紹明(なんぽじょうみん、大応国師)が、文永7年(1270)招かれて開山しました。当寺には、元の使者趙良弼(ちょうりょうひつ)と交した詩が残るほか、寺蔵の絹本著色大応国師像は国指定の重要文化財に指定されています。また、宋からの帰国途中、海上で嵐に見舞われた国師の乗る船を、宋で国師に助けられた白兎が竜となって守ったという伝説も残されています。(案内板より)

法蔵院

姪浜は古く「めこの浜」とも呼び元寇防塁を築いて九州探題指令所が置かれていた。また海上に浮かぶ能古島がある。かつて、宋、唐、新羅の一行が停泊した所である。昔は閑静な漁師町であった。
江戸初期二度この辺りを焼き尽くした大火災があり、火元に瑞光法尼火伏の願いをこめて筑後八女飛形山より十一面観音菩薩を勧請し一寺を建立したのが始まりである。山門を入ると側に水掛地蔵尊、水子地蔵尊、ぼけ封じ観音菩薩が安置してあり、通りすがりの人々、特に登下校時は、子供たちが大勢、水を掛けて合掌している姿が見られる。(法蔵院HPより)

街道沿いの寺