西中島橋と枡形門

西中島橋と枡形門
慶長12年(1607)の黒田長政の福岡城築城によって、中世以来の交易都市「博多」と黒田家お連れの衆の武士、町人が移り住んだ侵攻都市「福岡」が双子都市としての歴史を歩み始めました。
城下町福岡は、福岡城の外郭を形成し、東側は那珂川と境とし、肥前堀・中堀を経て、西側は大堀とヤナ堀(黒門)で区画されていました。城下町には、唐津街道の一部でもある六丁筋と言われる本通りがあり、東の境目の那珂川縁には「枡形門」が設けられ、西中島橋、東中島橋によって博多町と繋がっていました。
枡形門は、軍事的防衛と唐津街道の城下出入口の機能を持ち、高さ10メートルの石垣と櫓門でつくられており、唐津街道に通じる北門と福岡城大手門に通じる南門を備えていました。
掛け軸には、福岡と博多という二つの文化に関わってきた西中島橋と枡形門の姿が描かれています。

安国寺

慶長5年(1600)、豊前中津から領地替えにより福岡に入部した黒田長政は、天翁全補和尚のために、中津の安国寺をこの地に移しました。寛永12年(1635)に火災で焼失しましたが、福岡藩二代藩主黒田忠之の援助により再興されました。境内には近世ちくえ全の刀鍛冶信国一族の墓や、棺の中で出産した赤子のために幽霊となって飴を買いに行ったという「飴買い幽霊」の伝承を持つ墓があります。(案内板)
「岩松院殿禅室妙悦」と彫られた女の墓の横に付属した墓には「童女」と刻まれています。

大長寺

1慶長12年(1607)ころ、黒田官兵衛の弟である黒田利則公は、父である職隆(もとたか)公の菩提を弔うため、自領の那珂郡市の瀬村に心光正岸寺を建立し、位牌や肖像画を安置しました。 利則公が亡くなった後、正岸寺のおさめられていた位牌や肖像画は、現在の大長寺に移されました。当時の大長寺は福生山という山号でしたが、職隆公33回忌の元和3年(1617)に心光山に改称しました。 「心光」という山号は職隆公之戒名「心光院殿満誉宗圓大居士」に由来しています。源相も官兵衛の父母(職隆公、同夫人)、祖父母(重隆公、同夫人)の4基の位牌が安置されています。(案内板)

古木の根
これは筑前国福岡藩の藩祖・黒田孝高(官兵衛・如水)の父、黒田職隆(1524-1585)の墓所から出土した珪化木(樹木の化石)です。
江戸時代中期の天明3年、播磨の国妻鹿村で職隆公の墓所が発見されたことから、黒田家は新たに職隆公のご廟所を造営すべく、家臣らを妻鹿村に派遣し、普請に取り掛からせます。その際、墓所の下から数千年もの歳月をかけて樹木が化石化した、この「古木の根」が掘り起こされます。
その後、普請は滞りなく進み、廟屋の周囲に玉垣をめぐらせた御廟所が完成、天明4年(1784)この古木の根は福岡へ運ばれ、藩命により職隆公の御位牌を祀る当寺へ安置されます。その折、黒田家の使者は、武士の正装である裃姿に古木の根の由緒書を携え、低調に御納めになられたと伝えられています。
黒田家は長きにわたり職隆公の墓所を見守ってきたこの古木の根を崇めるとともに、決して朽ちることのないその姿が、黒田家にとって末長い繁栄をもたらすものと考えられたのでしょう。(案内板)

延寿稲荷大明神ほか

唐人町商店街と唐津街道

江戸時代、福岡藩や唐津藩の参勤交代に使われていた道で、北九州の小倉から福岡城下を通過し、荒戸、唐人町商店街、鳥飼八幡宮の南側を通って西陣商店街へと進み、唐津城下に至る道筋です。
とりわけ、当仁校区内では黒門があった黒門飴屋前から唐人町商店街入口あたりの白壁と瓦葺の家屋、商店街の中にある福岡藩御用達であった和菓子店などは往時の面影を残しています。

八橋神社&西学問所跡

天明4年(1784)に福岡藩が藩士教育のため設けた藩校西学問所、別称甘棠館(かんとうかん)の跡です。徂徠古学派の儒者亀井南冥が館長となり、学生の自主的な学習を尊重する校風の元んい江上苓州、原古処、広瀬淡窓等の人材が育成されました。
しかし、幕府の学問統制や藩内儒者間の主導権争いの結果、寛政4年(1792)に南冥は罷免され、また同10年に学舎が火災消失したことを機に廃止されました。

愛宕神社