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櫛原天満宮にある恵比寿神社はたいそう人気のある社らしい。他のところより供花がいちだんと多い。そして恵比寿だけでなく、大黒様や布袋様やら、七福神は今後も増え続けるに違いない。これだけ笑いに満ちていると幸せ感いっぱいですが、一方ですこしたじろいでしまいます。

宮の陣神社と将軍梅

正平14年(1359)年の夏、征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手向けに1株の紅梅をお手植えになり、百万遍の仏名を唱えられたとされている。 対する少弐頼尚は味坂(小郡市)に滞陣した。8月、両軍は入り乱れてのい血戦を交えた。これが有名な大保原の合戦である。 戦いに加わり遷しした兵士は数千に及ぶと言われる。菊池武光の弟武邦は追慕のあまり出家して、この梅樹のほとりに庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが側の偏万寺である。 星霜を重ねて、親王が手向けられた紅梅は老樹となり、里人の語り草となってこの老梅樹を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。(久留米市案内板)

護国山国分寺

櫛原天満宮

櫛原天満宮
御祭神;菅原道真公
鎌倉時代初期、文治5年(1189)太宰府天満宮の神霊を勧請。源頼朝の創建という。または、筑州刺史某の説も。
南北朝期書写の太宰府天満宮古文書に「櫛原庄」とあり。当地に同宮領地があった。天文年間の兵災で旧記を焼失、約400年間の詳細不明。元禄15年(1702)に神殿、8年後拝殿を造営、郡中4社の一つに加えられる。
天明2年(1782)藩主有馬氏より祈祷料として米30苞を毎年寄進される。明治6年郷社に列し、大正12年神饌幣帛料供進神社として福岡県より指定される。社殿右奥に祀られる恵比寿神社は、福の神商売の上として近年参拝者が多い。
石丸遺跡の大石
当宮の周辺には今寺遺跡と石丸遺跡があります。今寺遺跡では、弥生時代前期から週末期に及ぶ衆r買うや甕棺墓、鎌倉時代のお墓や室町時代の溝、石に1門司づつお経を書いて納めた江戸時代の穴などが見つかっています。
石丸遺跡は、「今寺遺跡に住んでいた弥生時代の人々の墓地とみられる遺跡で、多数の甕棺墓が調査され、銅矛や管玉なども出土しています。
この大石は甕棺墓の上におかれていた石と伝えられていますが、古代における祭祀跡である磐座(いわくら)とも考えられます。’(櫛原神宮案内板)

高山彦九郎終焉の地

高山彦九郎は、延享4年(1747)上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれました。
完成の3奇人(ほかに 林子平、蒲生君平)として有名は彦九郎は、全国各地を遊歴し、当時の徳川幕府を批判し、王政復古を唱えました。
尊王運動の先覚者である彦九郎は3度、久留米を訪れており、寛政5年(1793)友人である森嘉膳宅の離れで恰幅して憤死しました。
終焉の地の碑は封建社会から中央集権の近代国家に移ろうとpする胎動期の歴史を語るものとして基調な史跡であります。なお、墓は寺町遍照院にあります。

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