矢部川の南仙橋

撮影は2012年2月。2012年7月の北部九州豪雨で南仙橋は流され、いまは再建の予定はなく、橋げただけが残っていると聞きました。郷愁を誘う木製の橋だったので残念です。

黒木の廻水路

(写真左)、矢部川、黒木町から下流を見る、遠くに南仙橋。
(中)水門
(右)廻水路、久留米藩側

(案内板より)
八女市黒木は、福岡県筑後地方の南東部、矢部川と笠原川の合流地点の北西に形成された。天正15年(1587)に現在の下町が、慶長年間に中町および上町が町立され、中井手用水も整備された。ついで正徳4年(1714)に黒木廻水路が整備され、街並みと水路網の基礎が形づくられた。
保存地区は、矢部川の中流域に近世前期に成立した在郷町を中心として、矢部川右岸に町方の黒木町、左岸に村方の農地により構成される。
藩政期、国割りによる水利慣行が発達し、右岸側(旧久留米藩領)に黒木廻水路、左岸側(旧柳川藩領)に三ケ廻水路が相対して築造され、高度な技術を伝える近世の水利遺産として類例を見ない。
近世後期以降、「居蔵」と呼ばれる重厚の町屋が残るとともに矢部川の堰や木橋、対岸の棚田や樹林地など水利にまつわる歴史的風致をよく残し、わが国にとって価値が高い。

黒木 地図

なぜ「廻水路」と名前がついているのでしょう。矢部川にはいくつかの「取水口」があり、柳川藩へ水を引くのであれば、矢部川と星野川が合流してからのほうが便利のように思えます。それなのに笠原川との合流点に取水口を設け、久留米藩と柳川藩は合意の上で水をそれぞれに引いています。矢部川のできるだけ上流地域から水田を増やすことにしたのでしょう。柳川藩の水の歴史を探してみて、理由がわかりました。例えば、筑後川へ流れる山の井川は、星野川から廻水路として流れ、途中の田畑を潤しています。

以下、フジクリーン(株)のHP柳川特集から引用。
上流と下流を結ぶだけの不思議な水路
 矢部川の水量はそれほど豊富ではありません。日照りが続くと下流の柳川まで十分な水が供給されないときもありました。水が乏しい柳川藩は水を確保するために自領の一部と久留米藩の領地であった矢部川左岸の領地の交換を幕府に願い出て認められます。こうして矢部川の左岸からの水が使えるようになったのですが、上流には久留米藩の堰(せき)がありそこからほとんどの水が久留米藩の領地へ引かれていたため、柳川藩はわずかの水しか得られませんでした。
柳川藩は久留米藩の花宗(はなむね)堰の上流に唐ノ瀬(とうのせ)堰をつくり左岸に回水路を引きました。矢部川に沿って流れるこの回水路の水は、久留米藩の堰よりも下流で矢部川に合流させました。今度は、久留米藩が水不足となってしまいます。久留米藩は唐ノ瀬堰の上流に惣河内(そうかわち)堰と矢部川右岸に回水路をつくり、唐ノ瀬堰の下流で矢部川に放流するようにしました。
すると柳川藩が惣河内堰の上流に込野(こみの)堰と左岸に回水路をつくるといった具合に両藩は次々と上流に向かって堰を築いては自国領地への水の確保に努めるという水争いを繰り返してきました。矢部川に沿って急峻な崖の中腹を回水路の水が流れています。水争いの歴史を知らなければ、上流から下流へ水を流しているだけの意味の分からない用水路にしか見えません。

町家保存地区

素戔嗚神社

藤の季節にははずれていましたので、今まで見えなかった彫刻に気づきました。