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現在は、大富神社と称するが、古来は宗像八幡社とも称され、大富神社神輿の古い鏡には大富ノ神とも宗像ノ神とも記されているという。
はじめ、真早という者が宗像三女神の神託が下されたのに始まり、宗像神社宝鏡記によると白鳳元年(671年)、山田庄長横武某に住吉大神・八幡大神の神託が祀ったという。
社伝によると、崇神天皇の時代、この地で疫病が流行したが、国主が当社神主に祈祷させると速やかに治まったという。延喜式神名帳の記載はないが、日本三代実録の貞観2年(860年)10月3日条には豊前国大富神に従五位下を授くとある。(wiki)

大富神社

福岡県・豊前市の岩戸神楽(大村神楽)
大富神社の社家、清原家によって伝授されたのが大村神楽です。神楽はもともと神官によって古くから伝承されてきたもので、豊前の神楽も中世のころには宮神楽として成立していたと考えられています。
大村神楽の特徴の一つとして、端正な式神楽が挙げられます。式神楽は、浄め祓いを中心として採りもの神楽と、古代の冬至祭儀礼の系譜をひく岩戸神楽から成っています。神楽の古い形態である宮廷神楽の内容を受け継いだもので、伝統をよく残したものと言えます。
山田の感応楽(かんのうがく)
大富神社に伝わる山田の感応楽は、区伝書によれば文武天皇酉年(697)より始まったといわれ、小倉の道原楽(どうばるがく)とともに旧豊前地方を代表する楽打ちである。 五穀豊穣、雨乞い、天下泰平、国家長久を祈願することが目的であり、人事を尽くして及ばざる、最後の手段として神前に奉納された。現在は4月30日、5月1日の両日、大富神社の古式春季神幸祭に際し、隔年で奉納されている。 役柄は団扇使い2人、中楽6日、笛12人、鐘打ち2人、読み立ての少年正副2人、さらに五色の幣を付けた子供たちで編成される。(後略、案内板)

勅使井

社記によれば、勅使(天皇の特使)が当社に参向の時、この井戸水を汲んで炊事に用い、あるいは茶水となしたところから、「勅使井」の名がk着いたと伝えられる。 奈良時代以降、宇佐神宮へたびたび勅使が遣わされ、その道中この地方に宿泊されたときは、古例にしたがって「勅使井」の御神水を差し上げた。明治以後は8回勅使参向があり、現在では10年ごとに勅使が遣わされ宇佐神宮勅祭が行われている。 この祭典にあたり当社より「勅使井」の御水を祭典用の御神水ならびに御茶水として献上している。 なお、神護景雲3年(769)和気清麻呂公は道鏡皇位事件に関し、勅使として宇佐へ下り、その途中路上より当社を拝礼されたのでその地を伏拝野と称し松を植え古跡として保存して椅子。(社務所案内板)

旭城跡(千束陣屋跡)

慶応2年8月(1866)、小倉小笠原藩15万石は、長州軍との戦に破れ、自らの手で小倉上と篠崎藩邸を焼いて逃れた。分家の千束1万石の藩主貞正は、同年11月、領内安雲の光林寺に入り、明治11年塔田原に館の建設をはじめ、翌12年10月に完成し、ここに移り旭城と名付けた。
現存の城跡石垣は、その当時、千塚古墳の石を使用したものである。明治4年の廃藩置県により、わずか1年ほどの千束藩の館であった。
明治13年、この跡地に千束神社を建立、さらに大正5年、塔田の御霊八幡神社と野田の八幡神社を合祀して千束八幡神社と改称して現在に至る。祭神は八幡大神、仁徳天皇をはじめ6祭神をお祀りしている。(案内板)

求菩提資料館

館内は撮影可。神道や仏像が混在している。 修験者の日常用具や薬草が展示されています、漆塗の椀や薬草の研究など、文化的、また知的レベルが進んでいることを示しています。

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