鹿部田淵遺跡

鹿部田淵遺跡第1次調査全景
鹿部(ししぶ)田淵遺跡からは6世紀中頃から7世紀初めころまで使われた大型の建物群が見つかりました。(写真右)
この建物群は、東西を溝で区画した空間の内部に大型の建物をL字状に配置しています。このような建て文軍は、竪穴住居が多い一般的な集落とは大きく異なり、奈良時代の地方官衙(役所)と似た特徴を持つことから、公的な性格をもつ施設と推定され、大和朝廷の直轄地を管理する「ミヤケ」の可能性があります。
日本書紀の「磐井の乱」の記述には、継体天皇22年(528)に北部九州の有力者であった筑紫君磐井が大和朝廷に敗れ、磐井の子の葛子が「粕屋屯倉」を献上したとあります
葛子は筑紫君の本拠地である八女地方でなく、玄界灘に面した糟屋をミヤケとして献上しています。これは大和朝廷が東アジアとの外交を統一するため、筑紫君のもつ会場交通の拠点(港)を献上させたと考える説が有力です。
鹿部田淵遺跡の大型建物群は、玄界灘沿岸の糟屋地老い木に存在した「糟屋屯倉」と同時期の遺跡です。(案内板)
鹿部田淵遺跡第1次調査
平成11年(1999)、古賀市鹿部土地区画整理事業によって発掘調査が行われ、掘立て柱建物3軒、西の区画溝・広場が見つかり、平成14年には東の区画溝を確認しました。
建物1は地形の一段低い位置にある南北棟の総柱建物で、倉庫と考えられます。建物2は東西棟の側柱建物です。建物3は建物群で最大の南北棟の廂付き側柱建物で、廂は西側に付いています。
遺構が見当たらない空間(空閑地)は広場と考えられ、作業など多目的な使用が考えられます。建物2の北東には、掘立柱が3基みつかりましたが、用途は不明です。東の区画溝は幅16.68メートル、深さ1.96メートル程の物です。
建物群は、西の3軒の建物と南の建物2をL字状にほぼ90度に直交させた企画性の高い配置にしています。また、建物3は廂を西に設けるなど海方向に表を向けています。(案内板)
地形と古環境(古賀町都市計図参照)
鹿部田淵遺跡は鹿部山から花鶴川(かづるがわ)へ伸びる丘陵の南側側面に位置します。遺跡の南には低湿地が広がり、弥生時代中期から水田の開発が始まります。また、周辺の丘陵にはブナ科、マンサク7科、クスノキ科などの照葉樹林が広がっていました。
遺跡の南に昔あった鹿部大池は、市内では千鳥が池に次ぐ広さで、フナやハスの花が有名でした。江戸時代に朝鮮通信使が相島(あいのしま)に宿泊する際、鹿部大池のコイが料理に出されました。
花鶴川の河口には、花津留浦(かづるうら)という港が明暦4年までありました。河口には潟が広がっていたと考えられ、地形の低い汐入(しおいり)・堀川一帯は潟の名残であると考えられます。
なお、宗像から松浦半島に至る玄界灘沿岸部は、日本列島から朝鮮半島にわたる海上交通の要地であり、古代には宗像族や安曇族といった公開技術を持った海人族(かいじんぞく)が知られています。(案内板)

鹿部山公園の皇石神社

古賀神社

古賀神社
昔古賀村内には東に氏神浦口神社あり西には氏神皇石神社あり各々崇敬厚く自ら村内は二分されし感じがあった。  尚字植松には貴布祢神社字後牟田には日吉神社があったが昭和二十七年二月十七日浦口神社に合祀して古賀神社と名を改めた。

薬王寺廃寺
平安時代の山岳寺院、標高150m。平成3年から6年にかけて発掘調査。結果、南斜面を切り開いて大小の建物2棟、石積み、瓦窯が見つかっている。山や田にに阻まれて周囲とは隔絶された場所。建物のうち1棟は瓦葺で本堂にあたると考えられる周囲からは大量の瓦が出土。礎石も残る。鬼瓦。現在は埋め戻して保護されている。

美明地区地図