MESSAGE

桜で囲まれた駕輿丁池も素晴らしい。バラは駕輿丁池のバラ園だけでなく、粕屋町役場の周囲に広がるバラ園も見逃せません。まだ十分に普及しないときも、イングリッシュローズが先駆けて咲きました。

駕輿八幡宮

祭神:神功皇后、応神天皇、珠依姫命、住吉大神
駕輿八幡宮の由来
このお宮は、神宮皇后が応神天皇を出産されるため香椎の宮を出発され宇美八幡宮に行幸されたとき、この地で休息されたので、ここに住んでいた人々が祭神したのが駕輿八幡宮の由来とされています。
駕輿丁という名称について
日本に律令国家が設けられた大化2年(645)四府と呼ばれる4つの官庁の一つに、駕輿丁座(天皇が外出されるとき、乗り物を勝日人々の組織)がありました。そもそも駕輿丁の駕とは乗り物の意味で、輿とは神輿(神のみたま)のことで、丁とは仕丁としえ身分の高い人を運ぶ人々(集団)をさします。この人々は南側の階段から、さらに池に降りる階段の下に集団で住んでいましたが、この池が江戸時代に築堤されたので、山、十原、切内、中通り、四軒屋「、平原などに移転して住んだといわれています。
駕輿丁座の変遷について
この座は律令国家が力を失うとともに衰えますが、平安時代、藤原氏が青磁を行うようになると、「各地の荘園から駕輿丁を集めたといわれています。ところが豊臣秀吉の時、この駕輿丁座は解体させられ全国から姿を消しますが、京都のハ瀬地区の方々は天皇の行幸や葬儀などの時、天皇の乗り物を担ぐ役目で蓮台に加わっています。駕輿丁という名称は残っていません。現在、「会長という名が残っているのは、日本中でこの地域だけで、歴史上、誠に意義深い地名です。(案内板)

駕輿丁廃寺

駕輿丁廃寺
この駕輿丁池からは、旧石器時代から奈良時代にかけての遺跡や遺物が買う多く発見されております。特に奈良時代(710ー793)を中心とする磁器には、橋の北側や東側にかけて寺が築かれ、駕輿丁廃寺「と呼ばれています。
この廃寺の伽藍は発見されておりませんが、伽藍の中心部分に位置するとみられる塔の礎石から推定すれば、当時は20メートル近くの塔がそびえ立っていたと考えられます。
また、この場所には廃寺に直接関係する倉庫群(総柱建物)も発見され、瓦類や須恵器なども出土しています。(案内板)

粕屋町のため池

町内の森林は江辻山・丸山・西尾山・焼地山などわずかしかありません。緑地としては水田 が最も多く、全緑地面積の半分を占めます。多々良川、須恵川があり、駕与丁池などため池が多いことから、水面の占める割合も約2割と大きくなっています。

粕屋町出土品

粕屋町立歴史資料館。

粕屋町周辺

香椎線と福北ゆたか線
踏切を走るのは福北ゆたか線。レンガのアーチの上を走るのは香椎線。 レンガの真ん中にあるのは、「かなめ石」と言います。
駕輿丁池からの眺望