唐津・万葉と伝説編

『万葉集』は、ながく勅撰歌集と考えられていましたが、いまは、大伴家持が中心となって編纂したと考えられています。 大宰帥であった大伴旅人(665-731)と、その子で 大宰府政庁の高官(小弐)だった大伴家持(718?~785)、同じ太宰府の官吏であった山上憶良の和歌は、太宰府にも残されています。

鏡山の眺望

虹の松原

特別名勝 虹の松原(国有保有林)
この松原は日本三大松原の一つである。唐津市(浜玉町)に位置し、総延長4.781m総面積218ヘクタールあります。昭和30年3月、国の特別名勝として指定保護されている。
この地は玄界灘に面し、沿岸全地域砂原であった。初代唐津藩主寺沢志摩守は、この地に松を植えさせ海風を防ぎほぞ育成した。
「この松原の中に特に自分の愛する松が7本ある。これを傷つけたものは死刑に処す」と言って、その松がどれであるかを明示せず保護し、盗伐から守ることに成功したと伝えられている。現在松はおよそ100万本。
マツクリムシ等が発生しているためヘリコプターによる空中散布等を行い駆除の徹底をしています。
林内は禁漁区です。狩猟は禁止され、落葉、下草、土石、その他の採取や焚火、キャンプは厳禁です。樹木や施設などを損傷しても森林法、文化保護法、狩猟法などの規定により処罰されます。

※松を維持するのはたとえ1本でも手がかかります。虫の被害は早めに気づかなければただちに広がります。これだけの本数を保っていくのはさぞ難しいことと思われました。

佐用姫伝説

松浦佐用姫
日本の三代悲恋物語と言われる松浦地方に伝わる伝説た「松浦佐用姫」の物語です。古代、朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された聖ねん武将大伴狭手彦は、停泊地である松浦の地で土地の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちます。やがて出帆の日が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は、鏡山に駆け登り、軍船にむかって身に纏っていた領巾(ひれ)を打ち振りました。それでも名残は尽きず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化したというものです。 この物語は万葉の歌人たちにも数多く詠まれるものとなり、以後詩歌や能などの文学や演劇の題材にもなりました。鏡山はこの故事から「領巾振山」と呼ばれるようになったといいます。(鏡山石碑)
佐用姫岩
鏡山からおよそ3キロ、松浦川沿いにあり、周囲は池のある公園です。水のうえに木造の遊歩道がありますが、岩には登ることができません。案内板には、山上憶良の歌が書かれています。
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫
まつら潟 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつおらむ

浜玉町・垂綸石公園

垂綸石(すいりんせき)の伝説
この石は垂綸石(御立たしの石とか、紫台石)といわれ、古典である記紀、万葉集、風土記等にも記されています。
記紀によれば、神功9年、火前国松浦県玉島里(ひぜんのくにまつらのあがたたましまのさと)の小河のほとりで神功皇后が食事をなされた時、この岩の下に群がる鮎をごらんになり、針を曲げて釣り針をつくり、飯粒を餌とし、着物の裾の意図を抜いて釣り糸にし、河中の石の上に上がって吉凶を占われたところが、糸を投げられると鮎がかかったので、皇后は「これは珍しい」と仰せられた。そこで梅豆羅国(めづらのくに)といったが、今はなまって松浦(まつら)という。
その時お立ちになってお釣りになった岩が垂綸石であるとされています。
また、つり竿として使われたときの竹を挿して根付いた竹むらが今も玉島神社社域に残っています。(唐津市案内板)
万葉の歌人・山上憶良
たらし姫 神の尊(みこと)の 魚釣らすと み立たしせりし 石を誰見き
万葉の歌人・大伴旅人
松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人の羨ましさ
玉島の この川上に 家はあれど 君を恥しみ 顕さずありき

唐津焼・鏡山窯

唐津市近代図書館・中里重利展

2019年撮影。