唐津・町民と寺のエリア

唐津市は境界線こそありませんが、その果たす役割に応じて、それぞれのエリアに分かれています。 町民が暮らした領域は、唐津くんちの山車が残っていることで明らかに知ることができます。寺町は十人町を中心とした領域です。

唐津城は、町田川と松浦川が合流する交通の要所を押さえ、さらに唐津湾の海の出入りも監視できる小高い丘の上にあります。 名護屋城からすべての大名が引き揚げたのち、防御する海岸線の延長距離がたいそう長くなったことでしょう。取り急ぎ唐津城を築城しています。 さらに城主が時々交代しています。

唐津くんち11月2日宵山

唐津神社の秋季例大祭は「唐津くんち」で知られています。唐津市14の町内から曳山が繰り出します。 乾漆に漆掛けの曳山を造れる力は、豊かな唐津市の経済にささえられています。 訪れたのは11月2日、宵山の日です。翌日のくんちに備えて予行演習を行い、夜は前夜祭で賑わいます。

唐津天満宮

西十人町・東十人町

佐賀県唐津市十人町148番
JR唐津駅から、京町のアーケード街を抜けて町田川を渡ると、十人町があります。 「とうじんまち」とも読めることから、おそらく渡来人と縁の深い町だと思われます。 西十人、十人町、東十人町と広範囲に多くの寺や神社があります。
白玉稲荷大明神
佐賀県唐津市大石町
唐津天満宮のそばに鎮座するごく小さな稲荷神社
聖持院日切地蔵尊
日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。聖持院は真言宗の古刹であり、焼失前の本堂は名護屋城の建物の一部を移築したともいわれ、切妻屋根の建造物で当地方には珍しい寺院本堂であった。
当院に参詣人の絶えない理由の一つは、日限地蔵に信者がいることである。 参詣の期間を定め、毎日お詣りをすれば、すべての願いを叶えてくれるとの信仰があり、日参する人が絶えない。 お百度参りをする人、跣はだし参りをする人など、地蔵堂に灯明と香煙の絶えることはないが、特に四のつく日は参詣が多いという。
東十人町太洋寺・六地蔵塔
唐津市指定文化財
この六地蔵塔は、総高1.72mの灯籠型の石です(中略)上下2段のうち、上段に6観音、下段に6地蔵、計12体の仏像(菩薩)が彫り出してあります。天正7ねんとあり、この六地蔵塔は、唐津市内に現存するものの中で、最も古い紀年銘(1579年)がありますが、保存の状態は良好です。(案内板)

大石町・東の木屋(旧酒屋)

大石町は今も古い町並みが残ります。地理的にも交易に便利な船着き場に近く、大商人が多く豊かな町だったということです。鳳凰丸の曳山はよりいっそう豪華できらびやかで、重さも3t。
東の木屋(旧酒屋)は、商売で全盛を極めたころの名残りが、店の中に満ちていました。「安政」と書かれた看板、さよ姫の樽、祝いの赤いきめ樽。屋根から降ろされた鬼瓦には、恵比須様が笑って。丸に「き」と大きく染め抜きされたのれんが歴史を語っています。
大石町の石造恵比須像
この辺りは旧唐津藩時代から昭和初期にかけて海産物や農産物の市でにぎわったところで、土地柄と庶民信仰の結びつきをよく表しています。鯛を小脇に抱え微笑している本造は、雑喉74cm、幅53cmの石像です。その台石には道しるべと刻まれ左側面には天保10年(1839)の建立の銘が見られます。(案内板)

旧唐津銀行「辰野金吾記念館」

唐津銀行は明治18年に設立し、翌年に開業しました。設立時の頭取には、大島小太郎が就任しています。現在残る旧唐津銀行本店は明治43年8月に着工し、明治45年3月に竣工しました。
建設にあたり、大島小太郎とともに高橋是清から唐津藩英学校(耐恒寮)で教えを受けた工学博士辰野金吾の監督のもと、辰野金吾の弟子にあたる清水組の田中実が設計を担当し、装飾については京都高島屋が受け持っています。
建物のデザインのスタイルは、辰野金吾がイギリス留学時代に流行したヴィクトリア様式のひとつであるクイーン・アン様式を日本化したいわゆる「辰野式」と呼ばれるもので、赤煉瓦に白い御影石を混ぜ、屋根の上に小塔やドームを載せて、王冠のごとく強調する辰野流の工夫が加味されています。(記念館HPより転載)

(附)唐津海岸