唐津・武家エリア

唐津城について
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。
慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。(wiki)2012年11月撮影。

ちどり橋

木屋利右衛門屋敷船着き場跡
名護屋御陣御材木積運船頭として、太閤秀吉の命によって泉州堺よりこの地に移り住んだ木屋利右衛門屋敷内のこの場所に船着場があった。
慶長元年(1597)厳寒の2月、京都から長崎に向かう26聖人一行はこの船着場から上陸し、木屋の屋敷に宿泊したと言い伝えられる。利右衛門は密かに厚遇したとも伝えられ、聖人たちは十字の入った銅板を木屋に残していった。
26聖人は愛は死よりも強いという信仰の尊さを身をもって教え、後世のキリシタンや世界のキリスト教信者の心の支えとなった。
当時の唐津藩主寺沢広高の弟半三郎は処刑執行を命ぜられ、聖人の中に竹馬の友でかつてキリスト教教理を教えてくれたパウロ三木を見出し、パウロの不幸と自分の立場に涙を流した。 小説「木屋利右衛門」の著者で、西ノ木屋の後裔である古館曹人氏の句を添え、26聖人と木屋利右衛門と彼らに関わった人々の遺徳を偲びここに顕彰するものである。松浦文化連盟(案内板より)

二の門堀と時の太鼓

二の門堀
唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高は慶長7年(1602)から7年をかけて唐津城を造りました。このとき松浦川の河口を満島山(まんとうさん、現唐津城一帯)東側につけ替え、二の丸と三の丸の間にあった旧川筋を堀に活用したと言われています。
この堀は二の門堀とかあ二の門外堀と呼ばれていました。三の丸に住む藩士たちは、この堀を渡って登城していました。堀の北東側には海に向かって北の門と呼ばれる門が開いており、二の門の西側には時の太鼓とか撞鐘堂(つきかねどう)と呼ばれる時を付ける櫓がありました。(唐津市案内板)
時の太鼓
唐津城址整備計画の一環として唐津藩絵図に基づき、佐賀県の地域づくり推進事業の補助を得て再現したものです。
唐津藩は初代寺沢志摩守広高が、文禄4年(1595)に藩主となって以来、大久保、松平、土井、水野、小笠原と六代270余年間、江戸幕府の譜代大名として、唐津藩を統治してきました。
代々の唐津藩絵図によると、4代城主土井公時代にこの地に「時鐘」がおおかれ、のちに「金附堂」」「時太鼓堂」「撞鐘堂」となり、また、五代藩主水野公時代には「時之太鼓」と記されています。(中略)
櫓の大きさは高さ7.68m、間口4.84m、奥行5.36mで、時計hあからくり仕掛け時計です。(案内板)

札の辻

札の辻は江戸時代の唐津城外曲輪の東側出入口の門があったところです。 外曲輪は堀と石垣で囲まれ、多くの町人が住んでいました。
傍を流れる町田川には低い太鼓橋風の橋が架かり、橋を渡ると南向きの門が建っていました。門をくぐると番所があり、南側には町奉行所がありました。
番所の西側には制札場、御高札と呼ばれた掲示板があり、木綿町と京町や魚屋町、大石町へと通じる辻になっていました。
札ノ辻橋の東側にはキリスト教弾圧により長崎へ護送され処刑された二十六聖人が上陸した船着場や逗留したと伝えられる西の木屋もあり、札ノ辻公園には小笠原氏の時代に「橘葉館(きつようかん)」と呼ばれる藩医学校が建っていました。(案内板より)

※「辻のはし」を境にしてそのまま直進して橋を渡れば、商人の町である西十人町、東十人町、大石町へ通じています。「十人町」は音読みして「とうじんまち」であり、中国人も住んでいたと思われます。辻の橋を川沿いに北へ進めば、武家屋敷の城下町へ進みます。

旧高取邸

旧高取邸は、炭鉱主(杵島炭鉱など)として成功した高取伊好(1850-1927)の旧宅で、市街地北側の海岸沿いに建っています。(中略)
建物は和風を基調としながら居室棟に洋間を持つなど近代の邸宅の特色を備える一方、大広間棟に能舞台を設けるなど外に類を見ない構成を持つ点に特徴があります。くわえて絵が描かれた杉戸、植物の浮彫や型抜きの動物を施した欄間等の各部の意匠は優れたものがあります。明治期の和風の木造住宅として規模が大きく、良質の材料をふんだんに使用した意匠性豊かな住宅建築です。
また、居宅棟の周りには、土蔵をはじめ食料庫、使用人湯殿、家族湯殿、貯蔵庫(ワインセラー)等の付属棟があり、当時の生活の様子を知ることができます。(案内板より)

※コンクリートで固められた玄関横の建物は、家事、風呂など、火を使用する領域になっています。木造は火事には最も用心していたようです。