長崎街道・飯塚宿(1)

大里宿・・小倉城下・・黒崎宿・・木屋瀬宿・・直方・・飯塚宿・・内野宿・・山家宿・・原田宿

嘉穂劇場

かつて炭鉱の街として栄えた福岡県飯塚市には、現在では数少なくなってしまった芝居小屋が今も残っています。炭鉱労働者の娯楽施設として発展しました。開業1931年。

構へ口跡、大神宮跡

飯塚宿・構へ口跡
宿場の両方の入口にあり、道の両脇に道路に対して直角に石垣を築き、その上に瓦葺の土塀(築地塀・ついじべい)を設けていました。長崎奉行、大名の宿泊時や非常時には特に厳重に警備しました。(案内板)
大神宮跡
宝永3年「(1706)ここで元大神(もとおおかみ)と刻まれた光る石が発見され、大神石と呼び祠を建てて祭りましたが、明治42年納祖八幡宮に移され、祠の跡に井戸を掘り、その水で神に捧げる酒を造りました。
神の栄酒

東口商店街

江戸時代、本町商店街と東町商店街を結ぶ交差点には白水橋があり、橋の下を遠賀川が流れていた、とあります。この川は千鳥屋の正面右手へと続き、現在は遊歩道になっていますが、石の欄干があり、川であったことがわかります。

明正寺

明正寺は、参勤交代に同行する藩士たちの宿泊所でした。
勢屯り(せいだまり)とは
参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち、先触(さきぶれ)、ひげ奴、金紋・槍持ちなどの隊列を整えたところ。なお、明正寺には、享保14年(1729)八代将軍吉宗に献上された象が飯塚宿を通った記録があります。(案内板)
飯の山
昔、明星寺という寺の造営が行われたとき、その開堂供養のまつりに飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に集めたところ飯の塚ができたので、飯塚と呼ぶようになったと言います。 また、神功皇后が「いつかまた逢おう」と将兵との輪kれを惜しまれたのが地名の起こりであるという話とともに、「飯塚」の地名の起源を説明する伝説の地であります。 ここはまた江戸時代、飯塚宿の上茶屋(本陣)のあったところでもあります。(案内板)

太養院と参道

参勤交代の際、藩主は御茶屋に休憩または宿泊しました。明正寺(藩士宿泊所)の奥にあり、現在は飯塚片島交流センターのある場所です。ここから長崎街道へ戻るには、。 太養院の前の参道を通ります。ここは狭い路地で、両脇には白壁の民家があり、身分の高い参勤交代の列を上から見下ろすことのないような造りになっています。

本町商店街・問屋場跡

飯塚宿・問屋場跡
阿波国地蔵尊

シュガーロード

千鳥屋と栄橋の欄干
昔、川であったものが、千鳥屋の蕎麦には遊歩道として残っている。橋の欄干には、
「らんかんに みだれ飛ぶかな 千鳥跡」
長崎街道とシュガーロード
島原の乱、天草四郎時貞の時に、大友・豊臣の軍勢とともに豊前豊後に幣をかまえ、そこへ敵将の薩摩軍(島津)が軍を移動する際に一触即発となり、やがて佐賀藩龍造寺軍またその家臣として戦いに敗れ、島原を後にすることになりました。(1630、寛永7年)
そして原田家はその時、その後そのまま平戸。長崎へ行くこととなったのではといわれています。そこで、スペイン人の宣教師、ポルトガルの船の船員当料理技術集団に遭遇することとなり、お菓子技術を学ぶことができました。
ポルトガル船からは丸ボーロを学び、そしてスペイン人からはカステラ・有平糖等を学び、我が国の南蛮菓子の基本となっていきました。
その時、その製法をいち早く取り入れ、原田家はその長崎カステラ、丸ボーロからヒントを得て原田政雄は飯塚氏本町で千鳥饅頭を誕生させました。(案内板)

千鳥屋総本家(東京、長男、現在は他社の傘下にある)千鳥饅頭総本舗(福岡、次男)、千鳥屋宗家(兵庫、三男)、千鳥屋本家(飯塚、五男)に事業を拡大。

幸袋のレトロな通り

炭鉱町とお菓子
炭鉱の労働者は重労働なので、飯塚では食事のほか、甘いものが好まれて菓子メーカーが拡大発展している。「千鳥屋」「さかえや」「成金饅頭」など。

地図