板付遺跡

板付遺跡は、縄文時代晩期から弥生時代にかけて営まれた集落遺跡です。台地上に二重の環濠によって囲まれた集落と、その周囲に広がる土砂が堆積してできた土壌(沖積地)に営まれた水田跡で形成されます。 水田は畔で長方形に区画され、集落のある台地の外側には用水路と井堰を設置して水田に水を送り込みました。水田からは人の足跡も発見され、遺跡から出土した土器によって日本最古の稲作集落であったことがわかりました。昭和51年に国史跡に指定されています。(案内板)

遺跡建造物の復元型

竪穴住居
ムラ人たちは地面を円形や方形に掘り下げ、屋根で覆った竪穴住居に住んでいました。板付遺跡では弥生時代の初めころの竪穴住居は発見されていないので、市内や周辺の遺跡を参考にして復元しました。
貯蔵穴
緒王穴は米や豆類などの食料を保存した穴です、竪穴住居の近くの貯蔵穴には、毎日食べる食料を入れ、溝や作で取り囲まれた貯蔵穴には一年分の食料や来年用の大事なも種籾を保存したのでしょう。

発掘遺跡の模型

環濠
発掘調査によれば、この集落の環濠はV字形に掘り込まれており、当時は幅約6メートル、深さは3~3.5メートルの規模であったようです。しかし、今の環濠は実物よりも浅く復元しています。環濠の両側には、掘削の時に掘り出した土を盛り上げた土塁をめぐらしています。また環濠南西部には一か所、幅4メートルの掘り残し部分(陸橋)が確認できました。これは集落への出入口です。

弦状溝
環濠の北西部には直線的な溝により、半月形に区画されている部分があります。ここでは多数の貯蔵穴が発見されており、食料などの貯蔵にかかわる区画だったことがわかります。

水田
板付遺跡は日本で最も古い段階(弥生時代早期)の水田が、最初に発見された遺跡として有名です。姿をあらわした日本最古の水田は、予想に反して、水路・井堰・畦畔を備えた、非常に完成度の高いものでした。米作りの開始当初から、当時の人々が高度な農業、土木技術を駆使していたことがわかります。
水田の遺構は、度重なる洪水のために、表面を荒い砂で覆われ、いく層にも重なって存在していました。発掘調査の際、水で砂を洗い落としながら作業を行うと、弥生時代の水田面から無数の足跡を確認することができました。
目の前にある水田は早期に比べてさらに規模の大きくなった弥生時代の水田をモデルとして復元しています。
この復元水田では、地域や学校の皆様と一緒に、田植えや稲刈りを行っており、現在も活躍しています。

ムラの墓地
ムラの墓地はこれまで数か所で発掘されています。ムラ人の多くは板付北小学校付近の共同墓地に埋葬されました。環濠のすぐそばには、子供たちの墓があります。かわいい子供たちの死を悲しんで、ムラの近くに埋葬したのでしょう。これらとは別に、環濠の南東側には小高く土盛りした墓地がありました。数基の甕棺から、朝鮮製の銅剣や銅矛が副葬されていたことから、ムラのリーダーだったムラ長たちが葬られたと考えられます。2014年撮影。

復元された遺跡

板付遺跡アクセス

最近、神社のお世話役が回ってきたので、およそ2年間、地域の行事に取り組みました。秋になり、境内にある社にしめ縄を造らなければなりません。製作は人手もあり手順は指南されるので問題ないのですが、「わら」を集めることが難しいのです。 稲作を続けている農家が少ないこと、さらに刈り取りはコンバインで済ませるので、束で残す手間は大変な手作業になること、地域共同体の意識が変化していることなど、さまざまな要因がありました。 60年ほど前にわら屋根の葺き替えをする農家があれば、近所は総出でわらを持ち寄り、屋根に上って手伝いました。すっかり忘れていたそんなことを思い出しました。