ういろう復刻

城下町の名物にはときに、ういろうを見かけます。たとえば名古屋や山口は有名です。九州では中津にもあります。博多の妙楽寺には、ういろう伝来之地石碑があることから、「光安青霞園茶舗」から近頃発売されました。博多区冷泉町の博多町家ふるさと館で取り扱います。

櫛田神社

埋蔵文化財発掘調査

大乗寺跡

博多旧市街・大乗寺跡
大乗寺は法皇山(ほうおうざん)宝珠院と合祀、昔は奈良西大寺の末寺で律宗にぞくしていましたが、のちに浄土宗を経て真言宗に改宗。大正9年(1920)、長宮院との合併にいおり現在の中央区大手門に移転しましたが、戦災により焼失しました。亀山上皇の勅願寺であったことから、寺跡には元寇の際に敵国の降伏を祈願した「勅願石」、県指定文化財の「蒙古碇石」、「地蔵菩薩像板碑」などがあります。

川上音二郎生誕の地

博多の商家に生まれた川上音二郎(1864-1911)は、自由民権運動に湧く世の中を風刺した「オッペケペー節」で売り出し、書生芝居で人気を博しました。
劇作を続けるかたわら海外でも日本劇を演じるなど、新派劇の創始者として貞奴布陣とともに日本の近代演劇史上に大きな功績を残しました。明治33年(1900)パリ万国博覧会で脚光を浴びた音二郎一座は録音盤を制作し、これが日本人による初のレコード録音と言われています。(案内板より)

生誕地は古門戸町の沖濱稲荷神社内にあり傍らに、音二郎の石碑が建っています。写真右は川端商店街入口の銅像。

鏡天満宮

鏡天満宮由緒
御祭神:菅原道真公
当社は鏡天満宮と呼ばれ、延喜元年(901)讒言によって太宰府の権帥に左遷配所されたまいし菅公が、博多に上陸された第一歩の地にご休息のとき、「海路の疲れに御やつれ給いし御相顔を鏡に映してご覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社です。
「やっとじんじゃ」とも呼ばれています。
当時このあたりは博多の渡唐口といわれ遣唐使が多く行き交い大陸の文化がさきがけて我が国に上陸したところですが、現在の社殿んの近くには唐から帰った伝教大師(天台宗の開祖最澄)の建立による明王山冷泉寺があったと伝えられています。 また、平安時代に入ると、平清盛によって祖での湊が築かれに日宗貿易の玄関口として一層の繁栄を極め商都博多の礎となったと処でもあります。
しかし中世に入るとその富を求めて、群雄が割拠し旅隊の戦禍に見舞われ、また近くは大東亜戦争によって壊滅的な打撃を博多の町は受けましたが、人々が鏡天満宮に寄せる信仰は深くその都度再建され、この度の博多リバレイン建設に際しても、共に浄財を拠出し御縁も深きこの地に新たな社殿を建立するに至っております。(案内板より)

綱敷天満宮

菅原道真を祀る神社です。社伝によれば、道真が太宰権帥に左遷され、太宰府へ赴任する為に袖湊に上陸したとき、住民たちは船の綱を輪にして敷物をつくり出迎えました。その後その場所に社殿が建ち綱敷天神と称しましたが、次第に訛って綱場と呼ばれるようになったと言われています。この呼び名はこの付近の長命「綱場町」として現在も残っています。(案内板より)

神屋宗湛屋敷跡

博多小学校と豊国神社
国内外との交易により莫大な富を築いた紙屋宗湛(1553-1653)は、織豊時代に活躍した代表的な博多商人としてその名を知られています。特に豊臣秀吉から厚遇された宗湛は、天正15年(1587)の博多復興に際して、この地に広大な屋敷地と町役免除の特権を与えられました。宗湛はその恩に報いるため、はやくから邸内に秀吉の霊を祭りましt。あこれを基に明治19年(1886)博多復興300年を記念して、現在の報告神社が整備されました。(案内板より)

現在の博多小学校は宗湛の邸宅跡であり、その一部に豊国神社が祀られています。

古渓和尚と古渓水

京都大徳寺の古渓宗陳和尚は、信長の葬儀の導師を勤め、千利休や神屋宗湛に授戒した高僧。 天正16年(1588)古渓和尚は石田光成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ、博多に配流された。神屋宗湛、島井宗室らは、和尚のために大同庵を造って迎え入れた。これが古渓町の名の由来である。
3年後、古渓和尚が大徳寺に帰山する際、恩返しに点茶用に使っていた井戸に水の印を結び鎮火の法を修し遺して去った。以来、「古渓水」は火難除けに霊威霊験灼たかな水として珍重された。(案内板より)

山笠用品取り扱い店

博多地図

地図左は江戸時代文化9年の古地図。 川端の大水道
「寿通」の下の暗渠は、以前、大水道と呼ばれていました。この大水道は「袖の湊」の遺跡の名残で、黒田長政入国のころから埋められ、下水溝化していたものです。 明治12ねんに大水道に蓋をする工事が進められました。こうして暗渠の上に幅1間半足らずの舗道ができ、「川端新道」「片土居新道」などと呼ばれました。その後、道の両側は商店街に発展、道路の名前も寿橋にちなんで大正11年に「寿通」と改名しました。(案内板より)