定禅寺の藤

田川郡福智町弁城
福岡県指定の天然記念物8昭和37年指定) 樹齢500年を越えるとされ、「迎接の藤」と呼ばれて親しまれています。境内一面に藤棚が広がり、地表近くの幹は太さ3.7メートルもあります。藤の花は福智町の町花で、このフジはシンボル的存在となっています。(案内板より)
ともに、一部には珍しい八重の藤が咲いています。

稲荷神社

古くから伊弉諾大神を金田庄の産土の神としてここにお祀りしていましたが、天長7年(830)この地方の飢饉をなくすため、京都の深草稲荷を分祀勧請して、稲荷金田宮といったのが始まりです。
例大祭は毎年10月20日に行われ、その前後の御神幸祭は山笠5本が神輿のお供をして、近郷でもまれにみる盛大な行事で、そのときに奉納される獅子舞と楽打ちは300年の伝統を持つ郷土の芸能です。
境内には須佐神社、蛭子神社、清徳神碑、里保神碑、忠魂碑が祀られています。(案内板)

稲荷神社境内

稲荷神社境内、右から須佐神社、蛭子神社、里保神碑。

金田村餓死者供養塚

享保17年(1732)夏は長雨50日も続き、稲に病虫害が発生して米穀は稔らず、さらに翌18年も同じような凶作であったため、人々は食うに食なく行き倒れて死ぬ者も多く、また草木の根を堀り山野草を食して生命を保った人もいたということで、死屍累々として惨状は実に言語を絶するありさまであった。
この飢饉は西日本で餓死者96万人、福岡藩10万人、小倉半4万人という「享保の大飢饉」である。
このとき餓死した人の数は小倉開善寺の大宙和尚の供養行脚によって記録されており、田川郡では6791人で、金田村148人、(案内板、後略)

菅原神社

祭神は菅原道真公。
伝承によると兼務2年(1335)大宰少弐頼尚が高取城主として来往のとき、領土安西、武運長久祈願のため、金田宮床河原の浄地に社殿を創建し、黄金八寸の菅公の御像をご神体として奉安したのが始まりといわれています。 その応永の兵乱のため御像紛失し、社殿も荒廃していたので、永亨3年(1431)に、時の高取城主筑紫三郎種遠がさらに黄金像を太宰府に請い再興していました。
しかしその後も繰り返す大洪水などのため、再び荒廃したので、明治になって崇敬者が現在の地に奉遷しました。その社殿が老朽化し、鉱害を受けていたので、平成2年に解体新築して現在の社殿となっています。
毎年4月15日16日に神幸祭が行われています。恵比寿神社境内に恵比寿像があった事から、商売繁盛を願って昭和51年(1976)に社殿が建てられ、恵比寿大黒天が祀られ、12月2日・3日に「恵比寿祭り」が行われています。以上、2014年4月撮影。

福智町地図