福岡城

黒田官兵衛孝高(如水)(1546-1604)は、戦国時代の武将で、筑前梅田藩の藩祖とされる。 はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、 のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、 中国四国及び九州を平定ののちは、その軍功により豊前国六郡を封ぜられ同地に中津城を築いた。 黒田長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。
如水の隠居後、長政は関ヶ原の役の功により長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ、筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いたのちは、 如水もその晩年を福岡城で過ごした。(案内板)

福岡城下之橋御門

城内への門は城に架かる3つの橋、上之橋、下之橋、追廻橋にそれぞれあり、このうち下之橋で入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。 現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、 長く一層のままでしたが、平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、 同20年に復原しました。(案内板) 正面は潮見櫓と伝えられています。

母里太兵衛邸長屋門

筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛は、黒田二十四騎の一人で、 福島正則から名槍を飲み取った豪傑として知られている。 黒田長政が筑前入国後、六つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長二十年(1615)病没した。 現在の天神二丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。県文化財に指定されている。(案内板)

江戸時代地図

名島門

この門は、天正15年(1587)、小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596-1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。 明治の中頃、長崎へ移築されそうになったのを、当時の代議士平岡氏により買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後、富士ビルの建設に伴い、現地に移されました。福岡市指定文化財
三の丸御鷹屋敷
福岡黒田家に仕え、儒者、博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、 「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。これまた本丸より高かりしかば、やまをならしてひきき岡とし、 如水公の隠居地とせらる。」という記述のある「三の丸御鷹屋敷」は、名島門を右手に上がった場所、現在の「ボタン・シャクヤク園」にあった。(案内板 2012年4月)