唐津街道・深江宿

奥平中津藩10万石は、城附と宇佐郡の添地を併せた豊前領で62000石、筑前国怡土(いと)郡1800石、備後国分領20000万石で、現在の大分、福岡、広島の3県にまたがっており、「三御領」と呼ばれていた。 中津藩は藩領となった怡土郡の支配を地代官に任せていたが、文政十二年(1829)怡土郡深江村新町(現・福岡県糸島市二丈深江)に奉行所を設置し、本藩から郡奉行を派遣して領内を支配するようになった。 秀吉の名護屋城遠征後には、この唐津街道を利用したのは、唐津藩と福岡藩。

誓願山正覚寺

誓願山正覚寺沿革
本寺院はもと真言宗に属し、元享年間(1321)二條城主深江氏の菩提所として宮小路古寺に開基されたが、永享3年(1431)大内、草野両氏の戦火に全焼、幸いに御本尊は無事であり、その後の焼く際にも護持避難するを得て今に御尊影を仰ぐことができる。
のちに摂津の人、定譽上人が天正7年(1579)現在地に再建して浄土宗に改め開山となり、誓願山大音院正覚寺と称す。二世高誉上人の代藩主寺澤志摩の守は百間四方の境内および石垣を寄進され、九世潮誉上人の代には梵鐘も鋳造せられ面目も一新していたが、文化4年(1807)新町家事に遭い元禄門(現在の側門)と御本恩を残すのみであった。(後略、案内板より)

天保の石灯籠

唐津街道は二丈交番前の交差点で深江宿。ここからは旧中津藩の領地に入ります。
新町公民館

中津領の名残り・延寿院、愛宕神社

深江神社

深江神社 御祭神;玉依姫命、菅原道真命
建久8年(1197)高祖城主原田種直公は、原田家再興の守護神として竈門宝満宮およびだ合い符天満宮を上深江片峰んい勧請されたが、境内の狭溢を恐れ、建仁3年(1203)深江現在地に御奉遷鎮座申し上げられた。これが深江神社の記録である。
降って豊臣秀吉公が名護屋城在陣の折り、天正20年(1592)当社の参拝されたときに、奇しくも秀頼公誕生の報を受け、秀吉公恭悦斜ならず、当社の秀頼公の産神なりと思召された。 早速、時の領主小早川隆景に命じ御社殿を再興させられ、なお秀頼公誕生を記念して深江神社の宮司の坊を誕生山神護寺秀覚院と改号された。隆景公おも石の鳥居を奉納されたのであるが、現在の第2の鳥居がそれである。
慶長18年(1613)唐津領主寺沢志摩守は、当社に百閒四方の社地を寄進され、なお大久保加賀守の代に至るまで、年々米二石の献納が行われた。
享保2年(1717)中津領となってからは、怡土軍西14ケ村の宋宗廟として近郷近在の尊崇厚く、秋の神幸祭は殷賑を極め、大正初期までは流鏑馬行事も行われ、盛大な神事であった。(案内板)

外内神社

外内陣由来記
外内神社と称し、祭神は大山咋命(日吉山王とも松尾の宮ともいう)勧請の年は不明であるが、深江の里南の方、二丈岳中腹字「ゲナイ」の森に鎮座してあったものを、明治21年外内山から深江神社境内の現在の地に移転鎮座。
神域である外内山の境内、および付近の山林は楠の大木が生い茂る、大きな森を成し昼なお暗き状にして、村人等は毎年8月には深山路踏み分けて参拝し、祈願をしていたが、安政年間には一部の御神木を売り、二基の神輿を購入、また明治20年神占により新しく祭祀を厚くし、年々神の行事を盛大に行い、永年継続すれば良しとの神の許しを得、村人等が協議し、楠から樟脳が採れることを知り、この大楠を当時の金で壱千五百円で売却、この金のうち700円をもって深江小学校を建築し、外内神社を移転、祭祀を行うようになった。
当時村民よりの負担なく、郡内一の学校を建て得たことは、外内の大神様の御神徳の賜である。(案内板より)

松林の造成と猿田彦

鎮懐石八幡宮、船繋石

鎮懐石八幡宮
鎮座地 糸島郡二丈町大字深江字萩原 御祭神 神功皇后、應神天皇、武内宿祢 鎮懐石八幡御実記をはじめ、古事記、万葉集の鎮懐石を詠める歌、などによると、神功皇后は應神天皇を懐妊しながらこの地を通って、朝鮮半島へ兵を出されたときに、卵型の美しい2個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って帰国後宇美の里で應神帝をご安産された。 どこで神功皇后が経尺の璧石を、子負ケ原の丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。
昔は深江津の上の石垣で築かれた高台にこの社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大きな松の木々が鬱蒼と生い茂っていたが、場所が狭く祭典にも不便を来していたので、昭和11年に南側山手の広い土地にご遷座し、幣殿、拝殿などを新築した。(中略 案内板)
万葉歌碑
安政6年(1859)に建てられた九州最古の万葉歌碑で、書は豊前市中津藩深江在住の儒学者日巡武澄である。
懐石碑
鎮座の由来を書いている。分は亀井南冥の高弟、(後略)
船繋石
神功皇后が乗った船を深江の浜で繋いだ石と言われています。ふなつなぎいしは二ヶ所あります。
社殿から見る海の景色
鎮懐石八幡宮の社殿へ上ると、眼下を通るJR唐津線と海が見えます。晴れた日には、10キロ先の姫島がよく見えるそうです。

福吉漁港

牡蠣の養殖
吉井浜の力石
登り口の右側に丸い3個の石が並べて置かれています。この石は大中小とあり、力試しのための力石である。 文政4年(1821)ころ、吉井浦と福井浦は、廻船問屋はじめ海運業を営む港として海の男たちが多く集まりその時の若者たちの力試し石である。 大量を願う海の祭は盛大に行われていたであろう。この祭に花を添えたのが若者たちの力比べであった。(後略 案内板)