榎社(菅公館跡)

1023年(治安3年)、大宰大弐・藤原惟憲が道真の霊を弔うために浄妙院を建立したのが始まりで、境内に榎の大樹があったのでいつしか榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになった。(wiki)

太宰府政庁条里跡

般若寺跡

般若寺は大化5年(549)筑紫大宰帥に任ぜられた蘇我日向が孝徳天皇の病気平癒のために建立したと伝えられるが、出土する瓦からは8世紀の奈良朝の建立であると言われている。
いずれの時代に滅びたかは不明であるが、この地が般若寺跡と伝えられ、塔の心礎と国の重要文化財、石造七重塔が残っている。
この七重塔は鎌倉時代の作で、石材は御影石、重厚な稜線をもって囲まれ屋蓋の曲線美は華麗な容姿を示している。塔の4面にある各1文字は四方仏をあらわる梵字で、その書風は力強く刻まれ、鎌倉時代の優秀な遺物であると言われている。(案内板)
この付近一帯は、以前から地名や伝承によって、古代の寺院跡であったことは知られていました。ここはその塔跡で、発掘調査によって一辺が11.9mの正方形の瓦積基壇が確認されています。
基壇は不可さ役50cmほどの掘り込みを行ったあと、版築という土を突き固める後方で積み上げられています。現在基壇上に残る塔の心礎は、本来の位置ではなく、わずかに動かされていることがわかっています。この塔の心礎は直径約180cm、厚さ約80cmの花崗岩製で、中央部に心柱を建てるための直径73cm、深さ15cmの円形ホゾ穴が彫り込まれています。
その他に塔跡の周囲では、塔より古い磁器の大型の掘立柱建物や柵列も検出され、塔跡の西側からは礎石も2基見つかっています。ただ、伽藍の全容解明には至っていません。 またここから東100mの処には、鎌倉時代建立と考えられる石造の7重塔が建っています。 (太宰府市教育委員会説明版)

菅公伝説)なまず石

なまず石
二日市北小学校近くの「鬼の面」バス停から曙町の住宅街に入ると、民家の塀から道路に突き出した大石があります。これは「なまず石」の「胴」といわれ、その庭先に「尾」といわれる小岩があります。「頭」は市道の向かい側の崖の急斜面にあります。

昔、菅公がこのあたりを通りかかると、大なまずがいつものように顔を出して、川を渡らせようとしません。菅公は立を振ってなまずを退治しました。不思議なことに、あたま、銅、尾の三つに切られたなまずは、いつの間にか石の姿に変身したということです。
のちになって日照り続きで田んぼのみうが無くなった際、この石に酒をふりまいて洗えば雨が降るといわれ、「雨乞いの石」として地元の人々に大事にされてきました。
この石から西南の大字紫に石井戸(今は不明)というのがあり、ここから上にはなまずはいませんでした。しかし明治6s年の旱魃に際して雨乞いのためにこの石を焚いたところ、石が裂けて、なまずが売られるようになったと言われています。(ちくし散歩から転記)
鬼(き)の面
筑紫野市二日市紫4丁目、「鬼の面」バス停から3分。田んぼの中にありましたが、今は病院の敷地に接して新築されているようです。

隈麿公奥都城(おくつき)

菅公が筑紫に流されたとき、隈麿と紅姫との二人の幼い子女を伴われて、朝夕愛されました。「少男女を慰む」の漢詩には「不自由な暮らしの中にも食べ物や住居に恵まれていることは感謝せねばならぬ」と教えられています。 隈麿は菅公が榎寺に流された年の翌年の延喜2年に病没されましたので、菅公は詩をつくってその死を悲しまれました。苔むしたその墓石の側には6弁の花を開く梅があります。なお近くの路傍に紅姫の墓と伝えられる碑もあります。(案内板)
隈麿公のお墓について
隈麿の墓と伝えられるものが、現在榎区の納骨堂の敷地内の一角に所在しています。昔から墓の傍らには6弁の花をつける梅の木が植えられています。また、墓に備えられた榊が枯れると誰かが新しい榊を備え、榎の住人たちによって世話がつづけられています。(榎区文化保存会)

晴明の井

榎社から東へ歩いて2分の所に、平安時代中期の有名な陰陽師・安倍晴明が開いたと伝えられ、どんな日照りの時でも水が涸れないといわれている井戸がある。出産時にこの水を使うと安産であるという信仰がある。祠の中に三角形の板状の石が置かれている。これは水を守る神様を現している。 なお、安倍晴明がこの地を訪れたという史料はない(wiki)