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ブラタモリで伊勢の「御師」の話題が出てきました。今でたとえると旅行コンダクター、コンシェルジェのような役割を果たしていたとのこと。なるほどそう考えるとわかりやすい。御師は、社務所の代わりに全国を回ってお札(チラシ?)を配布し、旅の魅力をアピールし、旅全般のお世話役を引き受けました。さらに伊勢の町では参詣客のお出迎え。お参りの次はおいしい食事、芝居や娯楽を提供します。内宮下宮との間ににあり、必ず通る「古市」の町は、充実のエンターテイメントパークでした。太宰府のさいふまいりも同様です。

関屋の一の鳥居

旧国道3号線、現在の太宰府市関屋の交差点には、鳥居と道標が残されています。関屋は、近世の主要街道の一つであった日田街道(博多~日田)からさいふ詣り(太宰府天満宮参詣)の道が分かれる箇所にあたります。かつては茶店が並び、高橋紹運の岩屋城合戦にちなんだ「関屋のつなぎだご」という名物も売られていたと言われ、潮斎台や道標、常夜燈が置かれ、文久2年(1863)には、当時の福岡藩主だった黒田斉溥が鳥居を寄進しました。これは「さいふ詣り一の鳥居」とも言われています。(太宰府HPより)

刈萱の関跡

大宰府の警固のために置かれた関所の跡。室町時代の末まで残っていたが、戦国時代になって廃止された。今は裏通りとなっているが、この道筋は博多から九州各地へ、九州各地から博多へ通う大路だった。「苅萱道心と石童丸」伝説のゆかりの地としても有名。現在の地名、関屋にかつての名残を見る。(クロスロード福岡から転載)

蔵司地区官衙

太宰府には実務を行う19の役所があったことが知られている。その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられる。政庁の西側に位置する丘陵は、現在、字名から「蔵司(くらつかさ)」と呼ばれている。
「蔵司」はもともと西海道(九州)9国3島の綿、絹などの調庸物(税)を収納管理する役所である。集められた調庸物はいったんここに納められ、その後一部は都に進上された。
後方の丘陵上に礎石建物(倉庫)1棟が存在することは早くから知られていたが、1978年、1979年にこの丘陵の前面地域が発掘調査され、二重の築地と、その内部に建物5棟が新たに見つかった。
これらの築地や建物は、8世紀~11世紀前後にわたって営まれており、「蔵司」を構成する建物の一部であることが明らかとなった。(案内板)
※SA、SB とは衝撃強度?不明。

坂本八幡宮

この坂本八幡宮は土地神・産土神として崇拝されている陣jあで、応神天皇を御祭神としています。(中略)
当社の勧請磁器は天文・弘治のころ(1532~1557)とされていますが、おそらくこのころに寺院が廃れ、土地を経営する現在の坂本区の原型となる村落ができ、その村の鎮守として寺の境内にあった社が再興されたものと考えられます。
境内入口南側にある「がらんさま」と呼ばれる立石は天台寺院の故地によく見かけられ、寺の中心地や結界となるさ貝におかれることがあるようです。
この場所が大字の境で「辻」という小字であることも、当社の鎮守としてのせ威嚇を表しています。古代には太宰府や九州を守護する寺であった四王寺が形を変えながら、現在では坂本区の鎮守として生き続けています。(案内板)

遊歩道

旧小字標石 花屋敷(はなのやしき)
【所在場所】坂本3丁目
【文化遺産情報】住居表示変更により古い地名が失われるため、平成5年(1993)11月に太宰府市が旧小字名を石標に刻して建立したもの。地名「花屋敷」の由来には諸説あり、都落ちした安徳帝の行宮があった名残という伝承や、昔の花町であったためなどと言い伝えられている。
オカッテンサン 鬼子母神堂
【所在場所】坂本3丁目(オカッテンサン境内)
【文化遺産情報】祀られている鬼子母神について、『続風土記拾遺』の記載には遍照院に訶利帝母・弥陀・大日を安置するとあり、『明細記』にも「社一所 阿弥陀 大日 訶利帝母」と、鬼子母神の別名である「訶利帝母」が記されている。現在も遠方からの参拝者の方々が訪れている。
御笠団印出土地
701年の大宝令に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された処である。
軍団は全国におかれ、普通一軍団は兵士1000人で構成され、その 兵士は成人男子から3人に一人の割りで徴発された。平安時代初め、筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。
近くにある水城小学校からは、遠賀団印が出土している。(案内板)

国分寺跡

筑前国分寺七重の塔
この目系は筑前国分寺に建てられていた七重の塔を10分の1のスケールで復元したものです。復元した高さは5.4mですが、実際はその10倍ということになり、遠くからでも見ることができたでしょう。
国分寺は741年に聖武天皇が子にを護る目的で全国に命令して建てたもので、福岡県内にはほかに筑後国分寺(久留米市)豊前国分寺(豊津町)がありました。
完成した当初は柱が朱色、壁は白色、窓(蓮子窓)、相隣や風鐸は金色に輝いていました。今回の復元作業では色を塗らず、もし今日まで建ち続けていたらこのようになっていたのではないかという思いから、古色で仕上げています。
この太宰府には、このほかに、観世音寺、般若寺、杉原廃寺などに塔があり、都をイメージさせる風景が広がっていましたが、今は礎石を残すのみとなっています。
辻遺跡第一次調査
ここは文化ふれあい館ができる前は福岡県の職員住宅で、桜並木の美しさは有名でした。その前は桑畑でゴロタ石が多く、畠にするのが大変だったそうです。さてそれより前は 発掘調査と行ったところ、奈良時代から鎌倉時代の人の活動の痕跡が出てきました。建物の柱穴や井戸跡、墓などです。特に注目しているのは、南のほうにある(現在の体験学習広場付近)東西方向の2本の溝です。
この溝は奈良時代のもので、道路の側溝と考えられ、約9m離れて並行に流れていることから、道幅は6~8mほどに復原できます。この道路を西へ辿っていくと、筑前国分寺、国分尼寺の南を通り、博多方面から水城の東門を通って太宰府に至る官道(およそ現在の旧国道3号線に重なる)に接続しているようです。
この周辺は奈良時代に計画的な街づくりが行われていたと推定されます。(説明版)

地図