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2015年は3月7日と10月25日、二度同じ場所を訪れました。 春は、観世音寺金堂の瓦が葺き替え中でした。また、戒壇院の前庭は、まだ整備されていませんでしたが、11月には砂が敷き詰められ、整然としていました。

都府楼跡

正殿跡とは
太宰府の長官である帥が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果たした場が正殿である。太宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統括していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、太宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
発掘調査でわかったこと
政庁の建物群は3期にわたって変遷し、1期は掘立柱建物、2,3期は礎石建物が採用され、中・南門の建物については2期と3期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建てかえられていたことが明らかになった。この建て替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭を3期整備層の下部で確認した。さらに、基壇の下層で1期の掘立柱建物、柵、溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが藩命した。すでに1期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
正殿の建物
残された礎石から3期の建物は正面7間(28.5m)奥行4間(13m)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取りつき、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径75m、これをのせる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の尾役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組み合わせ、朱塗りの柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹き抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。(説明版)

武藤資頼・資能

武藤資頼・資能の墓
五輪塔(向かって左)が武藤資頼(すけより)、宝篋印塔がその子資能(すけよし)の墓と伝えられる。武藤氏は鎌倉幕府の武将で、大宰少弐を世襲したことから、少弐氏を名乗る。五輪塔(県指定文化財)は、地、水、火の下3輪しか残っていないが、各輪四方には円相のなかに佛が浮き彫りにされている。また本来球形の水輪は四角石の角を落としただけで球形を表すなど、大変珍しいものである。
少弐資能顕彰碑の由来
武藤資能は建久8年(1197)太宰府に生まれ、安貞2ねん(1228)32歳で父資頼の跡を襲ぎ、弘安4年(1281)戦傷死するまで、53年間もの長きにわたり、九州における武人の統領として活躍した人物である。朝廷からは外交貿易行政をつかさどる太宰少弐と豊前守の官職に、鎌倉幕府からは鎮西奉行と筑前、豊前、対馬、壱岐の5か国の守護職に任ぜられた。
元軍はすべてこの5か国の海岸線よりに日本侵略を目指した。したがって彼は侵寇時、国土防衛上最も責任の重い立場にあったが、文永弘安の猟戦役を通じ、日本軍の総大将として獅子奮迅の活躍礎なし、国家の柱石として讃えられたのである
。 とりわけ津市阿、壱岐、鷹島などの住民が甚大な惨禍を被った。弘安の役においては、高齢にも関わらう出陣し、この時における戦傷のため弘安4年に死去している。享年84歳であった。実に国土防衛とはいかに行うかを身をもって示した郷土の偉人であると言えよう。大正4年には、この功績に対し、従3位の位を追贈されている。

玄坊の墓

玄坊は奈良時代の僧、阿部仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品(さんぼん)に准ぜられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力をふるったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原博嗣の霊に殺されたと伝えられる。(案内板)
松本清張は子供時代に父親にこの場所へ連れられて来たことがあり、「眩人」の著作ができたと言われています。清張記念館のかたがそんな話をしていました。

観世音寺

伽藍配置
発掘調査によって創建時の観世音寺は、約170m×170mの寺域を塀(形式は詳細不明)で囲い、南に南大門、北側に北門を設け、その寺域の内側に、下の模型のとおり中門左右からでた廻廊が講堂に取り付き、その内側に東に塔、西に東面する金堂を置くという観世音寺独自の伽藍で、「観世音寺式」と呼ばれている。
復元模型には左に「戒壇院」があるが、戒壇院が観世音寺に設けられたのは761年で、完成時(746)には存在しない。
国宝の梵鐘
観世音寺の梵鐘は、「戊戌年」(698年)、「糟屋評」(現在の福岡県粕屋郡)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と兄弟とされる7世紀末のものです。これらの梵鐘は同じ鋳型で造られたとみられており、妙心寺の梵鐘は洗練され完成された形であるため、観世音寺梵鐘の方がより古いと言われています。
観世音寺の鐘の音は、大宰府に左遷され、「府の南館」に住まう菅原道真の耳にも聞こえていました。家を出ることもできなかった道真は、漢詩「不出門」のなかで、「都府楼はわずかに瓦の色をみ、観音寺はただ鐘声を聴くのみ」と詠んでいます。
碾磑(てんがい)
石臼の歴史は古く、日本書紀には推古天皇の時代から造られていたとあります。観世音寺の石臼は直径103cmと大型で、何を挽いていたのかは不明。太宰府市内からは数多くの石臼が出土し、太宰府条坊跡では平安後期のこね鉢が出土している。全国に先駆けて粉職が行われていたと思われる。(太宰府HP)

戒壇院

「府の大寺」と呼ばれた観世音寺
観世音寺は、その造営は太宰府によって行われ、完成後もその庇護を受け、太宰府にあった筑前国分寺、国分尼寺、四王寺、安楽寺、大山寺、般若寺、塔ノ原廃寺、杉塚廃寺等の筆頭寺院として重きをなした。
戒壇院の設置
さらに、天平宝字 5年(761) 観世音寺に戒壇院が置かれた。これは観世音寺が西海道諸国の僧尼の官僧資格付与権限を一手に握ったこととなり、太宰府が軍事・政治面で西海道諸国をおさえ、観世音寺は、その諸国の仏教界を統括・支配を担ったといえる。(以上「古寺巡訪」から転載)

地図