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国分側にある水城東は展望台と駐車場を備えた公園に整備されています。道路が横切っているため、水城の断面を見ることができます。コスモスは満開でした。(2015年10月末)その後2017年には水城館が歴史資料館として開館したので、コスモスの開花状況はこちらで確認できます。

水城跡

東門礎石
水城は664年に築造された土塁で、この国分側の丘陵と住宅街になっている吉松丘陵との間1.2kmを塞ぐように造られています。土塁は門が2か所造られ、吉松丘陵裾に西門、国分丘陵裾に東門が造られました。
この付近には水城の東門があったと考えられています。和歌には「岩垣の水城の関」とも詠われ、石垣を伴った城門であったことが想像されます。古来から太宰府の入口として交通の要衝であったことから、城門に関する遺構は壊されてしまい、ほとんど残されておらず、東門のものと考えられる礎石が残っているだけです。
礎石は240×80cmの長方形で、礎石上面には円形と方形の彫り込みがあり、この形から江戸時代には鬼の硯石ともいわれていました。
礎石と門の構造復元図
礎石上面に彫り込まれた円形の穴には、左図のように門柱を据え、もう一つは門扉開閉の際の軸受けの役目を果たします。方形の穴は扉と門柱との隙間を塞ぐ方立を据えます。
旧街道付近に東門があったと考えられていることや、礎石の彫り込みの穴の位置化から、礎石は建築当時の位置ではないことがわかります。発掘調査でも江戸時代末期頃の攪乱層の上に礎石が乗っていることがわかりました。
江戸時代後期頃の東門礎石
江戸時代から、筑前国続風土記などの地誌にこの礎石のことが記され、筑前名所図会には挿図とともに「東の方大路の傍らに、門の礎一つ残れり、これを族に鬼の硯石という」と記されています。(案内板より)

太宰府政庁跡

観世音寺

天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために発願。80年の歳月をかけて壮大な伽藍が完成。九州の寺院をまとめる「府大寺」として栄えた。 境内には日本最古と言われる国宝の梵鐘がある。榎社にいた菅原道真公の漢詩に「都府楼はわずかに瓦色をみ、観世音寺はただ鐘声を聴くのみ」とあるのはこの鐘である。 宝蔵(収蔵庫)には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体が安置されており、すべて国の重要文化財に指定されている。(太宰府史跡探訪HPより)

戒壇院

奈良県の東大寺、栃木県の下野薬師寺と並んで日本三戒壇のひとつとして761年観世音寺に置かれた。戒壇とは僧が守るべき戒律を授ける場所で、授戒によりはじめて正式な僧侶として認められた。唐僧鑑真が来日後授戒を行ったことでも知られている。江戸時代に観世音寺から独立して、現在は臨済宗の寺院となった。ご本尊の毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)は平安時代の作で国の重要文化財。(太宰府史跡探訪HPより)

※2015年10月撮影。

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