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豊前国政庁跡について
豊前国府は、ここ福岡県京都郡みやこ町国作、総社地区に広がる奈良~平安時代の地方都市で、当時は豊前国の政治、経済の中心地として繁栄していました。また、当国府の政庁の南方約350メートルには、古代の官道が北西ー南東方向に走り、さらにその南方約450メートルには奈良時代に創建された豊前国分寺があります。政庁の南西に隣接する総社八幡神社は、平安時代に国司が参拝した豊前国の総社です。
豊前国府の中心部の政庁には8世紀から12世紀ころまで、官衙(役所)の主要建物が建設されていました。ここでは発掘調査で確認された第3期(9世紀後葉~10世紀後葉)前半の中門あと、東脇殿跡、築地塀跡などを中心に復元しています。この一帯は後世の開墾などで地形が変形していますが、政庁の大きさは東西の幅約79.2メートル、南北の長さ約105.0メートルでした。
発掘では、須恵器、土師器などの日常食器以外にも、緑釉陶器、灰釉陶器などの国産の高級陶器、青磁、白磁など中国からの輸入磁器、各種硯、墨書土器、木簡、瓦などが出土しています。(案内板)

豊前国府政庁跡

東脇殿跡
政庁の中央広場をはさみ、東西両側には南北に長い建物がありました。この建物は脇殿と呼ばれ、ここでは東側の脇殿跡が見つかっています。
10世紀初めの東脇殿は東西の幅が4.9メートル、南北の長さが38.4メートルもある長大な掘立柱建物でした。この建物には西側に幅1.5メートルの庇が設けられていました。また建物の柱は直径15センチと政庁の建物としては細めのものでした。
ここでは調査でみつかった建物の柱を当時の様子がうかがえるように土盛り基壇のうえに復元し、西側4か所には階段を設けました。
なお、この脇殿とは別に、11世紀ころの東脇殿が北側に隣接して見つかりました。このころの東脇殿は東西幅6.0メートル、南北の長さ30.2メートル、柱の直径は25センチ前後とみられています。

正殿跡
豊前国府跡の正殿跡は、後世の開墾により大きく削られ、当時の建物跡を確認することはできませんでした。このためほぼ同規模と見られる肥前国府の例を参向に基壇のみ復元しています。
正殿は国庁の中で最も重要な施設とされ、行政実務のほか、これに伴う儀式や饗宴が行われたと考えられています。
この様子を物語る資料として、実務関連では硯や木簡、墨書土器が、儀式関連では大量の食器、雑器類が政庁跡や周辺の関連施設から出土しています。これらの中には当時は貴重品とされた中国からの輸入品も数多く含まれています。

築地塀跡
古代の役所は周囲を回廊や築地塀、板塀、柵列などが取り囲んでいました。 豊前国府でも政庁の東と南側を区画する築地塀の跡(塀の両側の雨落ち溝)が確認されています。
また北側でも、東側の溝と直交する大溝が発見され、政庁の北側を区画していたものと考えられています。東側の溝は幅80センチ前後で、深さは最も深い部分で1.5メートルほどあり、みぞの内部からは政庁で使われた土師器の椀、杯、皿などの各種の土器が大量に出土しています。

中門跡
平城宮に代表される古代の役所は南側の入口に門がたてられていました。 豊前国府の政庁の場合も同様で、この場所から東西の奈川6.8メートル、南北の幅3.4メートルの掘立柱建物跡が見つかり、「八脚門」という形式の門があったと見られています。建物は柱の直径が30センチ前後で、柱穴は正方形で一辺が1メートルもあり、豊前国府の建物の中では比較的大きなものでした。 また、この中門の南側の築地塀付近には、南門も設けられていたものと考えられています。ここでは土盛りの基壇のうえに築かれていたとみられる中門の柱下部を復元しています。

築地塀(復元)
豊前国の第3期(9世紀後葉~10世紀後葉)の政庁は、10世紀中ごろに一度建て替えられています。第3期の前半の政庁は築地塀によって南北に長い長方形に区画されていたことが発掘調査で確認されています。第3期後半では政庁内部の建物は明らかになっていませんが、同時期の築地塀の雨落ち溝が発見されています。この場所は後世の開墾等による地形の変化が少なく、周囲に比べ1~1.5メートルほど小高く残されていました。この高さが平安時代の国富政庁が建築されていた地表の高さに近いものと想像されます。

豊前総社八幡宮

綱敷天満宮

菅原道真が藤原時平の讒言により大宰権帥に降格され、昌泰4年(901)、京都から大宰府に配流の折に船が難破し、ここ高塚の浜に漂着しました。この時地元の人たちが船の綱を円座に敷いて迎えたという故事により、天暦9年(955)、国府の命によって社殿が造営され綱敷天満宮といわれるようになりました。江戸時代には小倉藩主小笠原氏の保護を受け、宝剣、太刀や連歌、また県指定文化財の「西山宗因筆連歌懐紙」「小笠原家奉納和歌集」などが奉納されています。

以上は築上郡の歴史HPより抜粋。しかし同様の伝承は福岡市の綱敷天満宮にもあります。 訪れたのはちょうど梅が満開でした。宇都宮鎮房の幟が多く、地元では人気があるようです。さらに卯右衛門の石碑が大きいことに驚きました。民衆のために尽くし非業の死をとげた人だそうです。

宇留津(うるつ)城址、須佐神社

塩田沼
須佐神社の南の湿田地帯を塩田沼と呼び、宇留津城(塩田城)の堀(濠)の跡として、昔から言い伝えられている。
天正14年秋、豊臣秀吉の先手の中国勢二万八千騎が攻めよせて攻めあぐんでいる折しも、一匹の白犬が現れ堀の周囲を廻っていたが、やがて或る箇所よりすたすたと泳ぎ渡った。これを見逃さなかった黒田軍は、ここぞ浅瀬とばかり総攻撃に架かり宇留津城はわずか一日にして陥落、以来、宇留津城には白犬は育たないと、堀の跡と言われる沼地の中、西塩田は昭和50年頃より埋め立てられ、現在は住宅地となり、昔のおもかげが全くなくなってしまった。当公民館の敷地もまた、西塩田沼地の一部であった。(椎田町教育委員会、案内板)

金富(きんとみ)神社

地図

福岡県築上郡築上町にある八幡神を祀る神社。神亀元年(724年)宇佐に八幡神を祀る神殿(宇佐神宮)を造営するにあたり、神託により当地で斧立神事を行った。その際に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の3神を勧請して創建されたと伝えられるが、それ以前から宇佐八幡宮の元宮、若しくは霊地であったという説もある。(wiki)