さいふまいり

江戸時代、全国各地の有名社寺へ参詣し、道中の旅を楽しむ風潮が爆発的に流行しました。 「お伊勢詣り」や「こんぴら詣り」と同様に太宰府への「さいふまいり」も古くからの観光地です。
九州の参勤交代のために道路が整備された恩恵にあずかって、道に迷わず目的地へ行けるようになりました。民衆の生活もきっと豊かになって、余裕ができたと思われます。田辺聖子さんの小説「姥ざかり花の旅笠」には、北九州のお内儀さんが伊勢ばかりでなく、江戸、日光までも旅する様子が描かれています。
九州の街道沿いで「さいふ道」と呼ばれる場所は青柳ばかりではありません。天満宮に仕える社家と呼ばれる家は、民衆の観光案内役を引き受け、宿泊所を提供していました。今は交通が便利になって、日帰りできるようになったので、旅館もおよそ見当たりません。

五所八幡神社

御祭神:神功皇后、玉依姫命、保食神 由緒 当神社は神宮皇后は三韓御神幸の砌り、竜輿を休められたところと伝えられている。神域には、神木の樫をはじめ1千年を超える楠の大木などが繁り、森厳幽遂にして神々しい限りである。この聖地に神徳高き五柱の神々が鎮まります故に、五所八幡と称し奉る。なお当社は粕谷宗像三郡の総社であり、祈願所と定められ、五穀豊穣、住民寿康を祈願した由緒ある八幡宮である。 創建の年は不明であるが、延元の頃(1336)より5度も兵火に遭い、神殿拝殿その他宝物記録宝蔵等、ほとんど焼失した。戦国時代の名称、立花城主の立花道雪は崇敬の念篤く、天正11年(1583)に社殿を造営寄進したが、同14年島津の大軍が北上、鳥有に記した。 歴代の黒田藩主の尊崇も篤く、参勤交代の都度必ず社参、二代忠之は社殿を六代継高は神殿を、十一代斉溥は拝殿を造営寄進した。(後略、案内板)

唐津街道・青柳宿地図

為息庵、青柳大師堂、川原観音

聖観音の立像は、川原の副王に祀ってあったものを承応2年(1653)藩主の命により青柳宿に移されたもので本尊の聖観音は高さ約8寸(24センチ)立像で、堂内の別の聖観音立像の体内に泰安されていることから、「別名腹込の観世音といわれています。
その後元禄16年(1703)堂の後ろに庭園を築き草庵を営みて為息庵と号し、求正玄了2僧を住まわせしめ新腹浄土院の末庵としました。為息庵の扁額は博多崇福寺天庵和尚の筆によって書かれたもので、園の美しさと為息庵の扁額により広く名を高めたと伝えられています。
文政2年(1819)明治14年(1881)の2回、川原の火災で観音堂も類焼し、その後明治34年(1901)現在の観音堂が新築されました。(町川原分館案内板)

西構口と役場跡、青柳醤油

唐津街道は肥前小倉から肥前唐津までの街道で、長崎街道に対して内宿通りと呼ばれました。青柳宿は慶長10年(1605)ごろ川原村(かわばるむら)の住民によって上町が、青柳村良仙寺の住民によって横町ができ、寛永2年(1625)に青柳村古屋敷の住民によって下町・仲脇が造られ本町が出来上がり、承応2年(1653)には新町が加わり、宿場としてほぼ整いました。 宿場は長さ244軒(444メートル)あり、出入口には構口が設けられ、現在日の構口に石積みが残っています。宿には藩主が宿泊・休憩する御茶屋がありました。また、町茶屋は上下に2軒あり、藩主の従者や武士たちが利用しました。 宿の最盛期には103軒ほどありましたが、江戸時代を通じて84軒前後でした。江戸時代に2回、明治初年に1回の大火に見舞われています。唐津街道は黒田藩、唐津藩が参勤交代で通り、文政8年(1825)からは薩摩藩も通っています。(案内板)

太宰府神社道

さいふまいりは、江戸時代に太宰府参詣とともに周辺の名所旧跡をめぐる遊山を兼ねた風習で、太宰府天満宮のほか、現在は史跡となっている都府楼跡(太宰府政庁)水城跡などを訪ねる伝統が続いていました。

浄土真宗託乗寺

為息庵から約100メートル。その途中に天理教に寄進された寺もあり。 ここ託乗寺は敷地が広く、立派な鐘楼があります。本願寺派、享禄4年(1531)創建。