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ずっと昔、甘木の知人からナマズの干物を貰ったことがあります。真っ黒な炭もどきの川魚の印象が強くて、今でも甘木のイメージと重なっています。おそらく筑後川で捕れたのでしょう。

地図

茶臼山清岩禅寺

清岩禅寺
三奈木黒田家初代、黒田一成は知行領地の神社仏閣の建立に特に力を注ぎました。  元和年間(1615~1623)、知行地の交通の中枢である三奈木の小高い茶臼山に建てたのが清岩禅寺です。  三奈木黒田家の菩提寺であり、秋には山全体が紅葉で見事に色づきます。(朝倉市HP)

不動堂
この不動堂は昭和59年11月九州36不動霊場第32番札所に指定されたのを機会に般若心経の奉納写経により宗派を超えて不動堂の建立を発がんしたのであります。 施工は法相宗総本山薬師寺の西塔を設計施工された日本随一の名工鵤(いかるが)工舎木匠頭西岡恒一大棟梁(文化財保存技術保持者)に以来し、直に不動堂建立奉賛会を発足したのであります。(境内案内板、後略)
寺の墓所
裏手は一成公の墓所ほか。また、山の斜面は土塁風の畝がありました。 荒木村重の捕虜となった黒田官兵衛(孝高)の監視役を命じられた村重の家臣・加藤重徳。その後村重は出奔し、孝高は解放されます。重徳との約束通り、孝高は次男を養子に迎え、わが子長政とともに育成。黒田姓を与えます。
初代福岡藩主となった長政は、一成の数多くの偉功に対し、三奈木を中心とした下座郡(旧甘木市の一部)を与えます。これが三奈木・黒田氏の始まりで、初代が黒田一成です。黒田24騎の一人。明治になるまで、代々、黒田家の家老職を務める。
石敢当(せきかんとう)
小石柱で鹿児島本土から奄美沖縄に至る島々の町に点々と分布している。町の道路の行き当たりまたは人家の門に道路が突き当る処には悪魔や悪い風(台風)が直進してきて屋敷に飛び込んでくるので、それを防ぐ必要があると信じられ、魔除けとしてたてられてきた。また、中国の強い将軍の名前でそれが、魔除けとして鹿児島や奄美、沖縄に伝えられたものという説がある。この石敢当は、平成2年頃、当山の駐車場内の石垣の上に何人に依って持ち込まれたかは不明であるが、前述のごとく、謂れある石碑である。(境内案内板)

旧三奈木黒田家庭園

庭園の外枠は残っていますが、整備されておらず、トラクターが作業中でした。(2014年撮影) 現在、2021年は池泉回遊式の庭園が再現されているようです。

札の辻近辺

札ノ辻公民館付近の遺跡は詳細不明。

甘木・厳島神社

福岡県朝倉市甘木723
クスノキは朝倉市の保存樹木。 甘木風土記にいおれば、千里を行って千里を変える名馬と白髪の老人が今は小池となっているが、昔は大池のほとりに住んでいた。そこには老楠があり、その下には弁財天や阿弥陀仏観音が祀られている神秘な霊域であったので、この名馬は羽があるように飛び回るところから馬羽(ババ)と呼ばれ、この馬羽を町の名とし、その後、馬場町と書くようになったと記されている。このクスノキは町名の起こりに関わりを持ち、今日なお神木として崇められている。(境内案内板)

甘木・三福町天満宮

クスノキ、甘木市保存樹木 甘木記聞によれば、「樹木繁茂し白昼といえども闇夜のごとく」と記されていて、山伏の形相をした妖怪によって3人の旅人が腰をぬかしたことから山伏小路、そした三福小路と呼ばれるようになったと伝えられている。それほどに昔は緑の多いところであったようであるが、現在では甘木の市街地の中にあって数少ない森を形成している。

甘木・安長寺

日田往還朝倉街道

撮影は2014年。2021年現在では、「甘木アーケード商店街」は「本通り」となってアーケードは取り外されているようです。 日田往還朝倉街道は、山家宿(筑前町石櫃)から日田まで。

JR甘木駅